''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「無心」に考える 「無心帰大道」編

無心になって一生懸命やれることは、できていますか?

無心になってやれる事や打ち込めることが、ありますか?

仕事であったり、趣味であったり、ボランティアであったりと何でもいいと思うんです。それが出来る人は幸せなんですよね。

その中でもすべてがうまくいくとは限らない。

失敗失敗の中でまた失敗、たまにしか成功しないことに喜び見たけられたら、いやそのためにやっているのかもしれないです。

私も挫折の連続です。

でも何にかをやろうとする「気力」は持ち続けるようにしています。

「こころ」の問題です。精神の問題とも言えます。

前々回で「平常心」について思うままに書き記しました。同じように「平常心」とは、そう考えるブログが結構あります。こころの安穏を多くの人が求めていると感じております。

「平常心」と「無心」、よく使われることばですが、どういう関係なんだろうか?

ふと疑問になりました。

禅の言葉、禅語に「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)というのがあります。

お茶のお軸に書かれるのにあります。

芳賀氏によれば、『「無心」とは、精神の活動の停止した空白の状態や、ポカーンとした一種の恍惚境を意味するのではない。ああこうのと作為したり、何かやと所捨分別する心のないこと、簡単に言えば先に説いた「平常心」のことである』、述べられている。(『禅語の茶掛 一行物』芳賀幸四郎著 淡交社) 
やはり「平常心」と「無心」は同一もしくは近しい関係にあるようです。凡人にもうっすらと言われることが分かるよう気がします。

芳賀氏が次のように『平常心すなわち「無心」になれば、そこからでる言行云意がおのずから道に合するのは、理の当然というべきである』書かれています。(同上) 
 
池波正太郎著「鬼平犯科帳」の中で、同心の沢田小平次が、師(松尾喜兵衛)の敵を討つ場面(「剣客」)が思い浮びました。

無心の中でいつもと違う工夫が出来たことによって敵に勝った。とっさのことから出来もので、あえて作為的にやったものでないと平蔵に述べていたように記憶している。

熱烈な「鬼平」ファンの方なら一語一句言えるに違いない。今一度読み返してその感動を感じて下さい。色々なことが学べます。名作です。

無心になれば、日頃の鍛錬した下地の力を踏み台にして、熟した自分自身の真の実力を発揮できるような[気]がします。それは何時来るのか分かりません。今日か明日か、何年後か分かりません。もしかしたら一生来ないかもしれません。

でも日々の生活が穏やにら過ごせそうです。[楽]しく暮らせそうです。

何かの力で生かされていますよ。一人じゃないんです。安心と感謝がそこにあります。

この道も「長安」に通じています。

そんな暮らしが出来たことに出来ていることに感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。