''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

さくらと疏水 「逢花打花 逢月打月」編

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疎水をバックに桜が咲いています。

季節は、春まっ盛り、桜は6分を越え見た目には満開かと見違えるかと思えるほどです。もうすぐすると散りの桜を伴います。この辺が満開というところでしょう。

日本人は桜が大変好きな民族でしょう。でも、世に多く広まったのは、豊臣秀吉の吉野や醍醐の花見以降だと言われています。宴会好きの民族でもあるため、より一層そこに酒宴の要素が付加したものでしょうね。でも、理屈ぬきで桜は気持ちが華やぎます。今週の日曜は天気が悪いので、今週中が花見のシーズンのピークとなります。

分かっていてもなかなか用事や仕事があり、思うように花見には行けそうにありません。でも、桜の下で酒宴をすることが花見ではないのです。要は、精神の問題、言い換えれば心の持ちようと割り切ることが物事を楽しむ秘訣です。

禅の言葉、禅語に「逢花打花 逢月打月」、一読すると「花に逢(あ)えば花を打(た)し、月に逢えば月を打す」というのがあります。とても好きな禅語の一つです。「打す」とは「たす」と読むようです。「だす」と書かれている本もあります。

座禅することを打座(たざ)と言いますし、感動するのを心を打(う)つと言います。読みも意味もなんとなく分かるような気がしませんか?

桜の花が美しいと思えば心ゆくまでそれを楽しみ、月が美しいと思えば飽きるまで眺める。でも時間的なものではない。1分でも5分でも心の充電池が満たすまで見ればいいんです。人によっても違うはずです。

休日に見る「桜」と仕事の途中で見る「桜」違うはずです。体や心が弱っているときに見る「桜」と元気なときに見る「桜」もきっと違うはずです。

今見る「桜」は、一生に一度きりの桜です。そういう意味では「一期一会」かもしれません。神聖な気持ちで見る「桜」それもありですし、邪心ありで見る「桜」も別にいいんだと思います。

時間が無くても花見は出来ます。花を見るこころの余裕があるか否かは大切です。

通勤の途中、仕事の移動での最中やろうと思えば出来ますよ。目の前に見える桜でも、遠くに見える桜でも同じことです。春です。町中に花は咲いています。桜でなくても菜の花でもいいんじゃないですかね。

私はこのように自分の中で理解しています。

偉そうなことを言っても、やはり私は凡人です。料理やお酒が有った花見の方がいいでしょう。一期一酒の気持ちは不純でしょうか? 肴は、焼き鳥なんてのもオツです。
それも有りですよ。

侘び、寂びの卓越した茶人や禅者にはなれません。でも、そのエッセンスを自分のものにすれば、目の前が少しだけ明るくなります。

今日も一日が過ごせますことに「感謝」です。