''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

銃弾の傷痕(きずあと) 伏見より

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写真は鳥羽伏見の戦で付けられたものです。この傷痕は料理屋さん「魚三楼」(うおさぶろう)の玄関のものです。当時から料理屋さんです。江戸時代の明和元(1764)年、讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業した老舗です。京都では同じ場所で100年以上商売されている店の会があります。結構有るんですよ。ビックリです。

伏見と京都、京都以外の人は同じ京都市と思われていますが、伏見の人からすると別の街の感覚です。もともと伏見は太閤秀吉が作った町です。今でも至るところに武将の名前が町名になっています。福島太夫西町、羽柴長吉西町、金森出雲、片桐町、鍋島町、松平筑前三河、毛利長門西町、板倉周防、治部少丸とか、戦国時代武将そのまんまの地名がいっぱいです。ここに屋敷があったからです。

知らない人が聞いたらふざけているのかと思います。

ですから、伏見は武士の町でもありました。伏見城で政治が取られていました。太閤秀吉というと大坂城ですが、あれは軍事的な城です。政治を取る城ではないのです。他にも京都の城があります。聚楽第です。城とは言いませんが堀を巡らせていたみたいですから、城といえます。この周りにも多く武将が屋敷を構えていました。

太閤秀吉は、3つの城を持って国を治めていたことになります。家来も大変です。いくつ屋敷を構えなくてはならないのか大変だったと思います。忠義のためには仕方ない時代です。

江戸時代にも伏見と京都は別々です。裕福な有力大名は伏見にも屋敷を構えています。京都、大坂にも屋敷はあります。交通の要所だったのです。

伏見には伏見奉行所が置かれておりました。

明治以降、現在は伏見区といいますが、京都市に合併される前少しだけですが「伏見市」と言っていた時代があります。合併されるためだけに作った名前だと聞きました。真偽ほどは良く分かりません。

話は戻ってこの伏見奉行所御香宮神社(ごこうぐう)とに幕府軍と薩摩長州軍がいくさをしました。場所的には、それ程離れていません。目と鼻の先と言ったところです。多分、敵同士顔が見えるほどの近さです。

それに鉄砲・大砲の雨あられ状態です。すさまじかったと思います。多くの方が命を落とされました。あの新撰組もこのいくさにおりました。
そんな傷あとが写真です。

今の世に生まれて本当に「感謝」です。

殺されたくもありませんし、殺したくもありません。無益な殺生です。政治が愚かなために起されたいくさです。

そんな犠牲の上に成り立った現在いかばかりでしょう。考えされられます。
こんな平和な世の中に「感謝」したいです。

最後まで読んで下さった方にも感謝します。
今日も一日いろいろあったけど「感謝」の気持ちでいっぱいです。