''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「行平鍋」と和歌一首

在原 行平(ありわら の ゆきひら)(弘仁9年(818年)- 寛平5年(893年))

ご存知ですか?

知らないでも弟の在原業平は聞いたことがあるんじゃないですか?  六歌仙の一人で、伊勢物語の主人公に擬せられる恋多き美男貴族です。(弟は)

弟の方がすこし有名人です。

落語「ちはやぶる」の元歌(小倉百人一首にも選ばれています)

「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」
(はるか遠い神代の昔でさえも聞いたことがない。このように竜田川が紅葉の鮮やかなでまるで錦を水をくくり染めにするようなことは)ような意味です。

いつもながら意訳まじりです。紅葉の季節に聞けばまた良いですよ。
でも、今日の主人公はお兄ちゃんの「行平」さんです。(よー拍手!!)

「在原 行平」は、平安時代の日本の歌人、もちろん公家です。

父親は、平城天皇の皇子阿保親王(あぼしんのう)在原業平とは異母弟。兄弟とともに臣籍降下して在原氏を賜る。このとき九歳です。

天皇家宮家が、多すぎて経済を逼迫(ひっぱく)するので、皇族から公家になり、形の上で天皇家の家来となったということです。今までは親戚づきあいでした。

お祖父ちゃんも大伯父さんもまた従兄弟も天皇という家柄です。それにあの大江千里の叔父さんという関係です。歌手と違うよ。ちょ~エリートです。しかし、どうした訳が左遷されたんです。

理由はよく分かりません。中央官僚の局長級が地方の副知事等を歴任し、突然須磨の区長に(須磨は神戸市です)なったようなものです。流されたと言いますが罪人ではないので大分格下の職に就かされたという感じです。その時の話です。

「わくらばに 問う人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたえよ」(古今集
と歌を詠んでいます。「行平鍋」は、これ和歌にちなんでいます。

和歌の意味と言いますと

家の者に言っておきます。須磨に流されたのを知っていながら、さもそらぞらしく「最近、お見かけしませんけども、どうされています?」と聞かれたら「ええ須磨の方に塩を取りに行っています」と寂しげにしょんぼりした風にしらじらしく嘘ぶいて答えておやりよ。とそういう意味です。

大変一方的な私の意訳です。意訳しすぎかもしれません。お叱りはもっともでも、内容はそれ程外れていないと思います。

でも「わぶ」というのは寂しげなしょんぼりと言う意味なんですが、しょぼりしていると行平自体のことを答えなさいと言っているのか、家人に寂しげに言えと言っているのか少し分かりにくいです。行平自信のことなんでしょうか? 私の宿題です。

この時代今のような塩の取り方はせず、昆布やワカメの表面に海水を付けて天日に干して表面に塩が吹いてきたら、この海草を燃やします。大変塩分の多い灰になります。これを一旦水に溶かせて、濃い塩水を作ります。

この上澄みの濃くなった塩水を鍋で煮て水分を飛ばします。すると鍋の縁に塩が結晶化されて塩の出来上がりです。しかし、灰にしたものですから少し色が付いています。

これが藻塩(もしお)です。藻に付いたのを燃やして作った塩と言う意味でしょう。とがった味でなく、ミネラル分の多い甘味がある塩です。でも苦味もあったでしょう。一度燃やしているんですからね。

これを煮詰める鍋が本来の「行平鍋」です。

土鍋で、お粥を作るときのように少し腰が高い、取っ手が1つだけの鍋です。風邪引いたときお粥を入れるやつです。ほら梅干入れるような茶色の壺のような色した鍋ですよ。

行平ならその名前を知っているならともかく分かりにくいです。ですから、イメージのきれいな「雪平」という方に変わったのかと思います。

でも、人に歌あり、物に由来ありです。

平安貴族の時代に気持ちを馳せながら、インスタントのラーメン食べます。

インスタントは、インスタントで美味しいです。子供の頃に食べたイトメン」の「チャンポン麺」が懐かしいです。

美味いの不味いのではなく、その場の家族の雰囲気とかシュエーションとか色々と思い出されます。

 

味は、匂いと同じように記憶を持っています。

ちょうど昔のヒット曲を聴いて、その時の気持ちを思い出すようなものです。

いつも使っている身近な品物に「感謝」したいです。

また、物を長く大事に使いたいです。「もったいない」の精神を謙虚にとらえて、日々生活して生かせたいです。生きているのでなく、生かされていることにも「感謝」です。

こんな長編のブログを最後まで読んで頂いてありがとうございます。「感謝」の気持ちでいっぱいです。