''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

痛風発作レポート 相生と高砂と住江より

未だ痛みはあります。すこし痛みのある部分だけがはっきり赤くなっています。
昨日は一日中痛みを感じながら生活をしておりました。マックスはすでに超えております。あとは心静かに発作の治まるのを待つだけです。

私は兵庫県の出身です。それも西の方の播州地方です。近くの相生(あいおい)市と言うのがあります。子供の頃どうしてこれを「あいおい」と読むのか不思議でした。地名であるから昔からそうなっていると大人の話に疑問がありました。大人になってからその答えが判りました。

高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり』は結婚・婚礼の定番歌です。

高砂』 (たかさご) は能や謡曲の作品の一つです。相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい作品です。

この作品の元になる話があります。

播磨国高砂の浜に高砂神社が最初にまつられたころ、境内に一本の松が生へてきた。松は根は一本だが、幹は雌雄二本に別れてゆき、御神木とあがめられた。あるとき、伊奘諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の二神が現はれ、「今よりこの松に魂を宿して、世に夫婦の道を示さん」と告げられてから、「相生の松」と呼ばれるやうになった。(播磨の風土記より)

しかし、能や謡曲の話になると
醍醐(だいご)天皇の延喜の頃、九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)は、都見物の途中、従者を連れて播磨国兵庫県)の名所高砂の浦に立ち寄ります。友成が里人を待っているところに、清らかな佇まいをした、一組の老夫婦(シテとツレ)があらわれました。

松の木陰を掃き清める老夫婦に友成は、高砂の松について問いかけます。二人は友成に、この松こそ「高砂の松」であり、遠い住吉の地にある「住の江の松」との二つの松を合わせて「相生(あいおい)の松」と呼ばれている由縁を教えます。

やがて老夫婦は、友成に、自分たちは高砂と住吉の「相生の松」の化身であると告げると、住吉での再会を約して夕波に寄せる岸辺で小船に乗り、そのまま風にまかせて、沖へと姿を消して行きました。

残された友成の一行は、老夫婦の後を追って、月の出とともに小舟を出し、高砂の浦から一路、住吉へ向かいます。

住吉の岸に着くと、男体の住吉明神(後シテ)が姿を現しました。月下の住吉明神は、神々しく颯爽と舞い、悪魔を払いのけ、君民の長寿を寿ぎ、平安な世を祝福するのでした。(能・演目字典より)

いまでも住吉神社さんは、多くの人の参詣を受ける信仰の対象です。
私も一度友人の結婚式で行ったことがありますが、立派な神社さんです。それ程に古い由緒のある神社さんとは知りませんでした。ここだけですが、近くに美味しい焼き鳥屋さんがあるらしいですよ。私も住之江に行ったときには是非「きらく」に立ち寄りたいです。

ちなみに婚礼の結納に納める人形ありますよね。白髪のおじいさんとおばあさんがここのシテとツレです。おじいさんは手に熊手を持ち、おばあさんは箒(ほうき)を持っています。おじいさんが言います。
「お前、百(はく)まで、わしゃ九十九(九十くまで)まで、共に長く生きようぞ」というわけでおじいさんは手に熊手を持ち、おばあさんは箒(ほうき)を持っています。

それも共に「老っていこう」と言うのでなく「生きていこう」と前向きに言います。歳を取るのは人として同じ現象です。でも、老いるのでなく生きると前向きな考え方に感銘を受けます。

それで相生(あいおい)は、本来「相老」ですが、「相生」と書いて「あいおい」と読むことになったのです。

病気も一緒ですよ。何が何でも直すというのも一つですが、一緒に共生して行くのも一つの方法です。長く付き合って行ける方法を取ることが大事であると思います。無理なく続けられるように、悪くならないように上手にともに行きたいものです。

未だに痛みはあります。でも明日、明後日には痛みは引きます。心穏やかに嵐が去るのを待つだけです。もちろんベストは尽くします。そんなささやかなことに「感謝」です。

いつもより難しい話でしたが、最後までお付き合いして頂きました方に重ねて「感謝」します。ありがとさんです。