''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

東寺と西寺

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神泉苑勝利の女神、善女龍王社です。


西寺(さいじ)は、平安時代、現在の京都市南区唐橋にあったとされる寺で、796年桓武天皇の勅願により平安京内で最初に建造が許された2つの官寺の一つです。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

東寺は、言わずと知れず世界遺産です。今も多くの参詣の人が絶えません。

西寺は東寺とほぼ同規模の大きさの寺院だとされ、西寺の僧であった守敏の衰退とともに寺も廃れていったとされます。西寺はその名前だけ地名に残し、公園になっています。

990年(正暦元年)にほぼ焼失した後、 1233年(天福元年)に残っていた五重の塔が焼失し荒廃していったと言われています。

その荒廃の元となった出来事に神泉苑での雨乞いに対決があります。

もともと神泉苑には竜神が住むといわれ、日照が続き、農作物の被害から、時の天皇の勅命により、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、善女龍王を勧請(呼び寄せられ)された空海が勝ったことに由来します。神泉苑には善女龍王がお住みです。

この戦いにはちゃんとして科学的な根拠があると考えます。まず日照が続いているということはすでに10日から14日が経っています。このため祈祷することになります。先に西寺の守敏が10日近く祈祷します。この段階で日照続けて20日から24日経っています。

この後空海が祈祷を始めます。祈祷を始めて1週間ほどで雨が降り始めます。日照から27日から31日が過ぎる頃になります。1ヶ月以上全く雨の降らないことは当時の日本では少し考えにくいでしょう。

空海は中国から雨乞いに有効な経典「請雨経法」を用いたとされます。しかし、それ以上に遣唐使として歴史に出てくるまで四国を中心とし、修験道の為、山の中に何日もこもり、日本中のあちらこちらを回り、水脈、鉱物資源など、気象や鉱山に関する知識が豊富に持っていたのです。

後に天皇から高野山を賜りますが、高野山は四国にも通じる水銀鉱脈の採掘場でもあります。水銀は朱色を作るためには無くてはならない鉱物です。朱色は宗教には無くてはならない色といえます。空海は日本の宗教界のトップにあったと言えます。宗教者だけなく、政治家的な存在と言えます。

つまり、先に俊敏に祈祷をさせるのは作戦でした。気象状況や豊富な知識から、絶対に雨は降らないそう踏んでいたのでしょう。伝承には、三日三晩雨が降り続き空海の勝利に終わったと言うことになっていますが、夕立が続いただけでしょうね。

この対決により、神泉苑は以後東寺の支配下に入るようになります。

いろいろと曰くのある場所が京都には多くあります。
休日にはゆっくりと目的地を決めて京都を楽しむのもいいものです。

その前に痛風の発作をまずは鎮めなければなりません。心静かに過ごすようにしています。
いまだ沈静しきっていません。もう少しの辛抱でしょうかね。ちょっと思っているより長引いています。

心穏やかに過ごせますように、また過ごせますことに「感謝」の気持ち持ち続けたいです。