''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

愛宕山(あたごやま)と明智の天下

天正10年 (1582年) 5月27日、秀吉援軍のため中国出陣を信長から命ぜられた光秀は、京都愛宕(あたご)山の愛宕社へ参詣した。思うところがあったのか、何度もおみくじを引き直したという記述か『信長公記』にあるらしい。翌日、愛宕山西坊で連歌の会が催された。

このときの光秀の発句に 「ときは今 あめが下知る 五月かな」 と詠んだ。

ときは光秀の出自である土岐氏、雨が下知るは天下を意味するとされている。このときに本能寺の変を決意されたとされています。

いろんな解釈があるようですか、天が知るは天皇(朝廷)の意向を知るなどとも解釈されています。本人しか分からないと思います。光秀ほどの教養ある武人があからさまに謀反の意を人に公表することは考えられません。

明智光秀は謀反人であるとするイメージが強く、公平な評価が欠けていることが多いです。

織田信長に初めて出会ったのは西暦で、1568年で家臣の中で初めての城持大名(坂本城)になったのが1571年、本能寺の変の時の石高は34万石であります。片や秀吉は 1554年頃に信長に初めて出会い、家臣の中で二番目の城持大名(長浜城)になったのが1573年、本能寺の変の時の石高は20万石であります。(『週刊歴史のミステリー』2008年第1号を参照)

出会って3年で城持ち大名とは破格の出世であり、破格の待遇であると思います。確かに教養もあり、典礼にも通じて田舎大名の信長には便利極まりない人物であった。その上、武人としても目覚しい武功があった。

現在では当然と言えそうですが、家柄や身分を重く用いる当時の時代には皆無のことと言えます。確かに将軍家と朝廷と難しい関係にも円満に事を進められることは信長にとっても見つけものだったと思います。

あまり知られていませんが、光秀は朝廷から「惟任(これとう)」という姓を頂いています。ですから「惟任日向守」と言うのが正式な呼び名です。やはり破格の待遇です。のちに秀吉も「豊臣」と言う姓を朝廷から頂きます。もしかしたら「惟任」の時代があったのかもしれません。でも、歴史に「もし」はありません。

信長は家臣に恵まれた主君と言えます。それは家柄などにこだわらず能力主義を採用したもっとも顕著な結果かもしれません。信長も相応にその功績に応じた待遇を与えている。石高も34万石です。

それにもかかわらず謀反が起きた。信長の手勢は少数、謀反を予感していたと言う人もおいでですが、それは考えにくいと思います。すでに京は信長の支配地になっていたのですから、安心しきっていたのだと考えます。

それにもかかわらず謀反が起きた。起こした後の事も当然考えた上での行動であったと思います。でも、人心は秀吉に付き、天は秀吉を天下人に押し上げた。

光秀も何の保証もなく謀反を起こすはずはありません。歴史上言われる遺恨や感情だけで謀反は起こせるものではありません。光秀から言えば、正当な命令もしくは行動であったのかもしれません。歴史は勝者の歴史です。真実は闇の中です。

秀吉が何故あれだけの出世が出来たのか? 疑問です。何故関白まで上れたのか、摂関家の養子になれたのか、謀反の始末を光秀一人に負わせたのか、都合の悪い話は出てきません。

明日、愛宕山で決意する前日光秀は何を考えたのか?
ちょっと興味がそそります。皆さんも考えてください。

歴史にロマンを求められる平和の時代に生まれたことに「感謝」です。
悲しいことながら、この謀反により現在があります。時代や時間は繋がっています。
歴史に「もし」はありません。今の現在が未来にも繋がっています。自分は歴史をつなげる一つの歯車でしかありません。精一杯自分の天命を果たすだけです。
何かの力で、生かされていることに「感謝」したいです。

今日もながなかしいブログに付き合って頂いてありがとさんです。