石束 毎明(いしづか つねあき)
(寛文6年(1666年) - 宝暦5年1月15日(1755年2月25日)
元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続した。この際に新地300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となった。
享保12年(1727年)主家京極家が無嗣になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地される事件があり、石束家の家禄も半減した。毎明はこの半地に対応するため、積極的に藩士のリストラと倹約にあたり、豊岡藩の財政維持にあたった。また殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡名物品となる柳行李を生産させたのも彼の業績である。
子、毎雅
毎雅に家老職を譲ったが、毎雅は藩主京極高永と藩政改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して藩を去ることとなり、毎明も豊岡を去った。
晩年は甥にあたる広島藩士大石大三郎(大石良雄の子)のもとに身を寄せた。
宝暦5年(1755年)広島で死去。享年90。
妹・りくと同じ国泰寺に埋葬された。