''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

お手頃なふぐの唐揚げを食らうより。

秋晴れの一日でした。
今日は、京都国立博物館に細川家の至宝展を見に行っていました。
少し整理して、こちらも後日記事にします。

それにしても、温かな秋晴れの気持ちいい一日でした。
久しぶりに、心地よい日曜日を過ごせました。
そう言えば、先日、スーパーでいいものを発見です。

ふぐの唐揚げです。
すでに衣も付いています。
あとは、家庭で油で揚げるだけのお手頃な商品です。
値段も手頃な398円です。
イメージ 1

写真を見ると、海老の天ぷらのようにも見えます。
違う角度からなら、鯒(こち)の天ぷらのようにも見えますね。
しかし、一応ふぐです。

もちろん、トラふぐではありません。
毒のないシロサバふぐです。
時々、一汐干のシロサバふぐを、グリルで焼くことがあります。
これに、すだちかレモンの柑橘類を絞って、一味をフリフリします。

一応イチラーですからね。
お約束です。

でも、淡白なふぐには、一味がよく合います。
鍋なら、紅葉おろしが合いますね。
少しぴりっとした感覚がある方が、美味いです。

シロサバふぐと言えど、あのふぐの食感は楽しめます。
アロマっ子さんに頂いたすだちが、ふぐの持ち味をぐっと上品にしてくれますね。
香りと味の楽しみが、和の楽しみでもあります。

熱々の唐揚げです。
ふうふう言いながら、これにはやはりビールか、発泡酒ですね。
炭酸のシュワシュワが、揚げ物によく合います。
あっさりした揚げ物ですから、日本酒の燗にも合います。

この日は、湯豆腐も一緒に頂きました。
この歳になると、湯豆腐のあっとりした感覚に、ほっとします。
ポン酢の柑橘類が、酸味と淡白の豆腐の持ち味を高めます。

最近のお気に入りは、とろろ昆布です。
北の妹からの頂き物から、最近のお気に入りの食べ方です。

湯豆腐が面倒なら、温奴(おんやっこ)という手があります。
お湯に豆腐を入れて温めます。
それを取り上げて、その上にとろろ昆布やおぼろ昆布を、豆腐の上にかける。
別皿にポン酢が醤油で頂きます。

郷里播州では、おでんをしょうが醤油で頂く風習があります。
温奴も、しょうが醤油で頂くもの大好きな食べ方です。
しょうがを醤油に溶くというやり方もありますが、山葵のように、豆腐にしょうがを乗せて、それに醤油を付けて頂く方法の方が、私好みです。

しょうがと豆腐はよく合います。
おろしたしょうがで、暑い時には、冷奴はご馳走です。
今では普通ですが、江戸時代では、ショウガの採れる時期が限られています。

しょうがと豆腐の、そう今で言うなら、マツタケと鱧の取り合わせでしょうかね。
季節が、少しだけかぶります。

遅い鱧と早いマツタケの饗宴です。
土瓶蒸しか、鱧とマツタケの小鍋仕立てなんていうのも、乙な一品です。

どうにもこうにも、最近野菜が高いです。
白菜など、えっーと言いたくなりますね。
葉物が、異常に高いです。
野菜不足を、もやしで補給されている家庭も多いですね。
我が家もその一例です。

最近は、鍋にもやしもよく入れます。
手頃な存在感が、庶民的でいいですね。
何事も工夫です。

知恵を生かして、上手に暮らす。
騙しているわけでなく、上手に騙される。
まさに仏の方便の世界です。
悪い意味でなく、上手に騙されることも必要です。

折角騙されるなら、上手に美味しく頂くように騙されたいです。
一昔、「もやしっ子」と侮蔑的な意味合いがありましたが、最近いいませんね。
もやしも、存在感のある存在です。

たかがもやし、されどもやしです。
スーパーのもやしは、最初に売り切れる存在です。
炒め物にしてもうまいし、ナムルにしてもうまいです。

子供の頃、給食に出たもやしのおひたしが懐かしいです。
醤油ベースの出汁を効かせた味わいです。
そこに胡麻が、振ってありました。

たかが胡麻、されど胡麻です。
禅の公案の記されて「碧巌集」の中、「洞山麻三斤」(とうさんまさんぎん)と言うのがあると聞きます。

ある修行僧が、高僧・洞山守初(しゅそ)に「如何なるか是れ仏」(仏とは如何なるものでしょうか?)と問いを発した。
和尚は、その時胡麻でも計っていたのか、無造作に「麻三斤」(胡麻三升)と答えられたと言います。

トンチではありません。
難しいことは分かりませんが、言える事は、極楽浄土は、十万億土の遠い彼方にあるのでなく、この見える自然世界の中にこそ、浄土の世界、つまり仏の世界があると言うことなのでしょうね。

たまたま胡麻だったので、「麻三斤」だったので、「ふぐ三匹」でも良かったかもしれません。
森羅万象、この世は、仏の世界です。
花が喩えられることが多いです。

野に咲くたんぽぽでも、ぺんぺん草でも、仏そのものであると言うことでしょうね。
春になれば、花が咲く。

自然の摂理です。
その自然の摂理の中に、人間も暮らしている。
特別な修行でなく、日常の生活の中にこそ、仏の境地もあるはずです。

人が、人として暮らす。
これが修行であり、その営みも修行です。
食も修行なら、その食を作るのも修行です。
出来るなら、楽しく作る修行をなし、美味しく頂くのも修行です。

花も見て、月を見て、旬を食らいて、酒を呑む。
ありがたいと感謝です。
生きているのでなく、何かの力で生かされています。
その何か、私には、仏様ですね。

ありがたい仏縁を頂けています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごしたいです。

最後まで、唐したのふぐ食う話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。