''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

盗賊「土蜘蛛の金五郎」に見る人生観

「土蜘蛛の金五郎」と聞いてピンとくれば言わずとしれた「鬼平ファン」でしょう。

鬼平犯科帳という池波正太郎が書いた小説です。テレビなんかでもやっているのでご存知じの方も多いでしょう。
小説を読んでなく関係ないんです。

「土蜘蛛の金五郎」は盗賊なんです。貴賊では有りません。非道な盗賊です。
でも、街中に「どんぶり屋」という定食屋を営んでいます。盗人の隠れ蓑です。

しかし、変わっているのは儲けないんですよ。利益は考えていないんです。
盗賊で得た金で経営しています。
低価格で定食屋やっています。そば一杯より安い定食屋です。お替りし放題です。ホームレスや金に困っている病人には、無料で施しをする。現代にもこんな店あれば言いと思うんです。でも非道な盗賊です。


下谷の車坂代地に「小玉屋」という小さな蕎麦屋がある。市中見回りに出た平蔵はそこで蕎麦をすすっていると、職人らしい男たちの会話が聞こえてくる。
「もう、驚いたね。飯は食い放題で、汁に魚がついて、うめえ漬物のおかわりをしてくれて、ここの蕎麦より安いんだからね」
「ほんとうかい」
「嘘だと思うなら行ってみねえ。三ノ輪の外れの「どんぶり屋」という飯屋だ。それにしても、よくまあ、あんな馬鹿なことを。裏へ回ると乞食や病人が集まって、むしゃむしゃ食っているのだ」
「そりゃ、お前。乞食だって、そんなに安く食えるなら」
「いや。乞食から銭はとらねえのだよ」 (小説の一部)


「人なみに善いことをして見たくなるのだ。悪事によって得た金で善事をおこなう。それで、いささか、胸の中がなぐさめられる。申せば悪党の虚栄なのだ」
鬼平こと長谷川平蔵が言い放ちます。含蓄ある言葉です。

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのれる。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
と人間観を長谷川平蔵が述べています。
平蔵の口を借りての著者池波正太郎の思う人間観でもあると思います。

何が善で何が悪なの、時代と共に変わります。
でも、人として生きている以上、無意識のうちに悪事を働いているんでしょう。
無意識のうちに善事もやっているのか知れません。

人としてもつ「業(ごう)」なのかも知れません。
怒った時に言う。「業(ごう)がわく」の業です。

人として生きているだけで罪です。なにもしなくても食事をする。何かの生命を食する。
まさに罪です。そう考えるともっと多くの悪事を働いています。

でも、人として生きるは「食する」ことです。
精一杯、正しく悪事(食する)を働くのも事として人間の定めです。それなら、悪事の後の善事もきっちりやりぬく事が必要です。

善事は人がやるべきことです。人それぞれにやることがあるはずです。「天命」があるはずです。
精一杯やることも人間の「業(ごう)」です。

人は生きているのでなく、生かされています。
今日生きるのは、生きる必要があったから生かされているんです。

生かされていることに「感謝」の気持ちを持ちたいです。

今日も長いブログにお付き合い下さってありがとさんです。