総索引https://kantoshoue.hatenablog.com/entry/35343705
小山 良師(おやま よしもろ)
慶安元年(1648年) - 正徳5年9月4日(1715年10月1日)
赤穂藩浅野氏の家臣。通称は源五左衛門(げんござえもん)、一説に源五右衛門(げんごえもん)。
慶安元年(1648年)、大石良欽の三男として生まれた。母は鳥居忠勝の娘。
大石良雄にとっては叔父にあたる。
寛文6年(1666年)3月26日、中小姓(24石4人扶持)として浅野長直に仕えた。
延宝3年(1675年)11月25日、伯父にあたる赤穂藩士・小山良秀の養子となり、足軽頭300石にまでなった。
元禄14年(1701年)の主君・浅野長矩による刃傷事件によって赤穂藩改易されると、赤穂城での論争では一貫して大石派として行動し、神文血判書も提出して大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は京都に住み、同じく大石の親族の進藤俊式とともに山科の良雄を支えて、浅野家再興運動に協力した。
元禄15年(1702年)7月、長矩の弟・浅野長広が広島藩お預かりが決まり、浅野家再興が絶望的になると、大石は仇討ち一本の路線に転換し、命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を行うが、小山は閏8月10日をもって脱盟した。
また、進藤もこの頃に脱盟しており、さすがの大石も2人に再考を求めたが、閏8月25日付の書状で再度脱盟。
同年末の大石らによる吉良邸討ち入りが行われると、脱盟を悔やんで剃髪し、山城八幡に住んで鳥居休澤と号した。
正徳5年(1715年)9月4日に死去。享年68。