年の瀬が迫っています。
今年は、いろいろとお使い物もしたことを思い出します。
一服のお茶が呑みたい気分です。
そうそうお使い物に、家族3人で駅近くの千鳥屋宗家に、今年は何度も立ち寄りました。
そうすると、序に家用の小さなセットを買って来た事がありました。
袋の包みを開けると、家で食べる菓子が入っていました。
本千鳥の袋にハイテンションな7歳児ゆうゆうです。
味もよく知っています。
美味しいモノに目がありません。
今回初めて見たのは、千鳥屋宗家の三笠です。
俗に言う三笠饅頭ですね。
ナルミの黄色い象さんのお皿に、カットした三笠を盛り付けました。
上品な味わいです。
餡の加減も、いいですね。
スーパーで買う三笠饅頭とは、味も香りも別物です。
鼻腔に抜ける生地と餡の香りが心地よいです。
天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも
あの有名な安倍仲麿の和歌ですね。( 『古今集』羇旅・406)
見ているのは、月であって、思い浮かべているのは、奈良の三笠山ですね。
居るのは、中国の唐から見える同じ月です。
安倍仲麿(698~770)は、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人であり、時の唐の玄宗皇帝に気に入られて、唐名「朝衡(ちょうこう)」として50年以上仕えたと聞きます。
一度帰国を許されましたが、帰国途中で船が難破して帰国に失敗して、結局帰れぬまま唐の地で没しました。盛唐の李白等とも 親交があったことで有名ですね。
和歌は、百人一首でも有名です。
見える月は、今も同じに見えるはずです。
この和歌を聞くと、『お座敷小唄』(作詞:不詳、作曲:陸奥明) を思い出します。
♪富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変りはないじゃなしとけて流れりゃ皆同じ ~
それに、子供の頃見た大晦日の『ゆく年くる年』の深々と雪の降る風景とお寺からの除夜の鐘の風景です。
雪も深々と降ると言いますが、実際の音はないですから、さらに寒さが募ります。
本山の鐘の音は、ゴーンというより、その余韻の長い事長い事です。
梵鐘という感じが強くします。
また、この除夜の鐘の音を聞くと、宝井其角が残した俳句を思い出します。
鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春
めったに売れそうにない、寺の梵鐘ですら、毎日売れるほど賑わい繁栄している大江戸のめでたい新春であることよ、という意味のようです。
私の励みとする俳句でもあります。
商いのあきないに通じます。
これまた、落語の「三井の大黒」で運慶作の大黒天に添えられていた歌と、甚五郎が後に添えた歌が思い出されます。
商いは濡れ手で粟のひとつかみ(神) 護らせたまえ二つ神たち
和歌や俳句は、一つからいろいろと続いて思い出されます。
年末年始に、思いを馳せてみたいです。
落語や講談も聞きたくなりましたね。
バカバカしい落語の噺もいいけど、私はほろりと涙を誘う人情噺が好きです。
落語「子別れ」とか、歌舞伎芝居の噺の「淀五郎」や「中村仲蔵」は、ほろりと涙を誘います。
演者の腕にも寄りますが、芝居の世界観がしっかりとある上で、落語の噺に深みを感じます。
相乗効果が、倍にも倍々にもなりますからね。
話芸とはそういうものかもしれません。
特に講談・浪曲は、根底から事実とは違う事がありますが、それでも涙の誘いに変わりはありませんね。
『赤垣源蔵徳利の別れ』なんかいいですよね。
衣文掛けに兄の着物を前にして、最後の別れの杯を交わすシーンは、何ともグッときます。
でも、赤垣源蔵、こと赤埴源蔵重賢には、兄は居ません。(えっ?)
それに下戸です。(えっ?)
そう真っ赤な嘘です。
でも、講談・浪曲は、涙を誘います。
俗に言う、「緊張と緩和」が、古典話芸の本質でしょうね。
この一年、いろんなことがありました。
残り少ない数日も、家族と家で過ごします。
来年は、良い年になって貰いたいです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。