''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

遠州の「綺麗さび」と「飛鳥川」

遠州とは小堀遠州です。大名茶人です。
私のブログでも何度か登場です。
庭を造ることにも長けた才人です。
お茶の精神を後世に伝える人です。
私は、茶人とは全く縁は無い生活です。
しかし、その精神世界には興味があります。

千利休から古田織部、そしてこの小堀遠州という天才茶人には共通していることがあるように思えます。それは、茶の世界が自分だけの「オリジナル」を追及したことにあるように思えます。

利休の「黒」の色の世界、織部の「ゆがみ」の形の世界、遠州の「綺麗さび」の美の世界かもしれません。美は見えるものと言う風に私なりに捕らえています。
つまり、庭であったり、茶室のこしらえと「ビジュアルの世界観」です。

この茶人が、もの凄い世界観があるのは、ネーミングの妙です。
お茶の茶碗や肩衝(茶入)に銘をつけます。このとき和歌をモチイフに使います。
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写真の『飛鳥川』は瀬戸の肩衝(茶入)です。(湯木美術館所蔵)
遠州は死ぬ間際まで愛用していたと言います。
名器ですね。有名です。名前は私も知っています。
なんでこの茶入が『飛鳥川』なのか、春道列樹(はるみちのつらゆき)の歌から因んでます。

「昨日とい(言)ひ けふ(今日)とくらして あすかがは(飛鳥川) 流れてはやき(早い)月日なりけり」

飛鳥川遠州が子供の頃の大和郡山(豊臣秀長所領)に流れていた川です。

「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」
(古今和歌集 詠み人知らず)
との歌もある風情のあるところだったのでしょうね。

写真の真ん中ほどに釉薬が垂れて流れているように見えるところからこの「流れ」をイメージしたと言うのを本で読んだことがあります。
ダジャレですよ。デーブスベクターもびっくりです。

でも上品なダジャレです。多くの人がこの素の本歌を知らないと訳が分かりません。
それだけ教養が必要です。和歌の教養が当時として多くの人が持っていました。

古今和歌集の「飛鳥川」は、当時の教養人なら知っておられたのでしょう。私は、この茶入を知ってから知りました。遠州はこうした和歌をモチーフにしたネーミングが多いです。
これを「下」に評価した人も過去にいたようですが、私は素晴らしいと思います。

利休の「黒」に対して、遠州は「白」です。黒は通好みです。分かり難いです。ちなみに秀吉は「赤」でした。「金」でもありました。こちらも分かり易いです。でも、利休の求めた「侘び」や「寂び」とか方向性が違います。

「赤」も「黒」も「白」もお茶の「緑」には映えます。対比も綺麗です。人それぞれに「色」の捕らえ方が違います。

遠州の「白」は、黒や赤に対する「白」ではありません。わかりやすいという意味です。
それぞれの茶があってしかりです。ですから、わかりやすい茶であったとも言えます。

茶室にしても庭にしても、言語は必要ないです。見てもらえば素晴らしいと声が出ます。
茶室も窓を多くすることによって明るい光の「白」の世界です。
難しい漢字での茶軸でなく、誰もがわかりやすい和歌を茶室にも掲げます。
利休の求める仏の言葉「仏」の位置づけとは、少し違います。宗教感が薄くなります。
その意味でも「白」です。素人の白とも言えます。

綺麗ものは綺麗です。誰にでも、わかりやすいわびさびですね。
ここまでくだけて書くと専門家からお叱りもありますが、素人の戯れ事です。ご容赦ください。(『小堀遠州綺麗さびの極み』小堀宗実ほか 新潮社出版を参照しました)
写真もいっぱいです。美味しそうな料理の写真もいっぱいです。
内容は難しいと思います。
はしょって書きましたので、興味のある方は原本をご一読ください。

偉大な先人の創意の結晶であろうかと思います。
それ以上に精神世界がまだまだ及ばないことを身を持って感じます。
そんな先人の世界に出会えたことに、ささやかに感謝です。
ありがたいと思えます。
今日はちょっと難しげな「よかった」でした。

今日も最後までお付き合い下さいましたことに、本当にありがとさんです。