''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

張子の虎より入ず。

昨日は、夢二の記事を書きました。
先日、手土産を頂きました。
ちょうど、夢二の展覧会の日です。

よく見ると「張り子の虎」です。
今年は寅年です。
ゲンのいい物と喜んでおりました。
㈲武久守商店の製造ですね。
しかし、よく見ると岡山県瀬戸市邑久(おく)町本庄・・・夢二生家駐車場隣って書いたあります。
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夢二ネタと知って、頂いた物のようです。
なかなかのやり手です。
「この御仁、出来る」
お気遣いありがとさんです。

感服しました。
こんな所に落ちがあろうとはね。
張り子の虎だけに、上下に首を振って頷くところが何とも愛らしいです。
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いつもにこやかに、頷きます。
何ともその首ふりリズムがコミカルでもあり、見ていると癒されます。

癒しのグッズは、今月は玄関に飾ります。
月ごとに、見える位置を変えて見たいと思います。

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と言います。
危険も冒険もしてみないと、その成果を得ることが出来ない例えです。
危険を冒してやってみる価値があるのか、ないのかも大切な要素です。

一か八かでなく、その中道を歩きます。
仏法世界でも、お釈迦さまは、中道を進まれました。
山に籠もって、難業苦行を行っても、悟りは解けませんでした。
それらを捨てて、中道を進まれます。

悟りの内容は、私のような凡夫には理解できませんが、特別に方法の中に悟りはないと言うことは理解できます。
日々の生活の中で、仏の悟りを生かすことが出来るのか、否かです。

山に籠もって、滝に打たれて見たところで、形だけでは自己満足です。
身を清める、精神を統一する、俗世の穢れから離れると言う意味では、意味があるのかもしれません。
山も滝もない砂漠のようなところでは、悟りは開けないのか、そうではないと思います。

人のいないところで、人の道を、仏の道を悟ることは出来ないように思えます。
一切衆生を救うことが、仏の願いなら尚更ではないかと考えます。

虎穴に入って一が八かの賭けでなく、いくらでも確率を高める方法はあるはずです。
成功にはこうした賭けも必要です。
しかし、確率を高める方法を考えた上で、事を起こすが肝要です。

物事をしっかりと見定める。
その上でよく考える。
何より人に喜んでもらえることが、大切だと理解しています。

人に喜んでもらえることを、自分の喜びと感じられる人生は幸せです。
ありがたいと、感謝の気持ちがそこにあります。
ささやかな喜びを見つけられたことは、幸せです。

日々の生活にこうした幸せは落ちています。
気持ちの持ちよう、考えようでいくらでも幸せになります。
それが中道のあゆみではないかと、私なりに思うところです。

今日も平穏無事に過ごせますように、手を合わせます。

最後まで、縦に頷く張り子の虎のように、読んで下さって、心よりお礼申し上げます。