''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

観音様とのありがたいご縁です。

今日も晴天の日差しです。
強い日差しに夏を思わせるほどですね。
朝から洗濯して裏庭に干すにはちょうどの日差しです。
午後には、からっと乾きそうです。
そんな京都伏見です。

先日、京都寺町の話を少し書き記しました。
京都で寺町というと寺町通りですね。
南北に通る縦の通りです。

北に行くのは「上ル」、南に行くのは「下ル」です。
田舎者の私には、最初に京都に来たとき、とっちに行くのか感覚が合いませんでした。
しかし、少し京都に住むと、いとも簡単によく表現が分かります。
地図要らずです。

行ったことがない場所でも地図は要りません。
しかし、通りの名前をある程度しらないと行けませんけどね。
縦と横の位置が分かれば、そこから上ってどちらかの場所です。

もちろん、東西だけでなく、西東もあります。
そんなときは、「東入(ひがしいる)」「西入(にしいる)」と言えば、それですべてが分かります。
大変便利です。
碁盤の目になっているから出来ることですね。

寺町と言えば、電気屋さん街の代名詞でしたが、今やその様子は様変わりです。
しかし、寺町と言えば、古本屋さんも多いです。
京都の場合、その地の利もあって、仏教書関係や芸能関係の古書が手に入ります。

何十万円もする古書もあれば、私がいつも買う100円やら200円やらの本もありますね。
仏教書ともなれば、高価なものも当然です。
偉いお坊さんの書かれた仏法の解説書や京大東大の偉い学者さんの書かれた哲学者から見た仏法世界の解説書は、数も少ないです。
改定されていないのも古書を探す楽しみです。

欲しい方にとって、数万~数千万円の価値があるかもしれません。
お寺さんや学者さんなんかでは、税務の経費で落ちますからね。
特に宗教団体なら、お金に糸目もつけずに古書も手に入ります。

こんな高価な古書は、私の手には触れることもありません。
しかし、少し前まで高価な本でも、古本屋では売れないと思えば、今や100円や200円で店先に置かれます。

自称・古本ハンターとしては、こうした隠れた名書にめぐり合いことが多いです。
特に寺院仏閣の解説書は、写真付きの特集号ですね。

今ではよくある特集の雑誌も、売れないとこの定位置に鎮座です。
そんな中、一冊の本に出会います。
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『観音経の話』大山澄太著 潮文社の出版 です。
もちろん、未熟な薄学故に、私の存じない方です。
この本出版当時で、俳禅修業45年されている方のようです。
いくつも書籍を掲載されいるようですね。

一番最初のページに以下の文が記されています。

母に捧ぐ

とつきの あいだ 朝夕に
わたしの ために
かんのんさまを 
念じたまいし
母上に捧ぐ
         十七回忌起筆 澄太

母親が観音さまを強く信心されていたようです。
その影響で、今の自分があるというものです。
ここでも仏縁を強く感じます。

内容は、いろいろな過去の出来事をモチーフにした回想や随筆です。
普段着の中に、その観音さまの存在を随所に記されています。
宮沢賢治も一休禅師の話もあります。

宮沢賢治に至っては、観音さまの手を見たという記事が載っています。
それによって一命を救われた話です。
乗っていたトラックは谷底に落ちて、木っ端微塵です。
その観音さまの「手」によって、運良く一命を救われました。

「うそ?」
そんなことは感じません。
「ある。ある」
と納得します。

時に絶体絶命にあって、何度もその力で、私も救われています。
信じる者は救われます。
ですから、そんなこともあるでしょうと、うんうんと納得します。

観音さまは、この娑婆世界を何処にでも行くことが出来る神通力をお持ちです。
ドラえもんの「どこでもドア」をお持ちなのかも知れません。
マグマ大使」のように、それに観音さまの名を唱えれば、すぐにそれを聞きつけて下さいます。
一心に念じます。

私は、特別な場合でなく、日常にその名を唱えます。
仕事場で、目の前をイライラ虫が集団でたむろしています。
腹立たしい気持ちが、心を捉えます。

ひ弱な自分が、愚痴を言いそうになります。
大丈夫です。
観音さまのその名を一心に唱える。

小さな声に出しても、心の中で念じても構いません。
すると少しすると、目の前のイライラ虫が自ずと立ち去ってくれます。
愚痴を発した口が、穏やかになります。

三毒」という人間の弱さです。
観音さまは、この人間の「三毒」も「七難」も取り除いて下さいます。
身を守って下さいます。
火からも、水から、盗賊からも、七つの難から、身を守って下さいます。

迷信ではありません。
日蓮さまは、この観音さまのお力で、命が救われました。
有名な話ですね。

小松原の法難では、東条景信が太刀を振り上げて、その日蓮さまの首級を落とすところです。
龍ノ口の刑場でも、白刃を前に、命を救われます。

いろいろとその場面を拡大解釈されて、書かれることもありますが、その土壇場でも、日蓮さまの命は救われたのは事実です。
奇跡と言えます。
しかし、必然です。

命を救われたのは、仏様との仏縁です。
観音様との仏縁でもあります。
そして、法華経の教えの正しさでもあると思います。
「刀杖」の難から救われたと言われます。
この「刀杖」の難も、七難の一つです。

奇跡でなく、観音さまのお力です。
どんな時でも、近くにおいで下さいます。
ありがたいです。
ただ無心にありがたいです。

特別な世界でなく、日常の中で、その名を唱えます。
困った時ばかりではありません。
ありがたいと感じる時にも、「ありがとうごさいます」とその名を唱えます。

私は、弱い人間です。
それでも救いの手を感じると少し楽に生きて行けます。

それらの日常を、この本の中でも書かれています。
観音さまとご縁があったことがありがたい。
ですから、そのご縁を結び付けて下さった母上さまに感謝して、この本を書かれたのでしょうね。

この最初の一文に、涙が出そうになりました。

意味もありません。
私にも仏縁があったことに感謝してもし尽くせない気持ちです。
その安堵感です。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、その功徳力のあるがままの長い話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。