''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

こっちのパン空(食う)?

朝から晴天の予感する京都伏見です。
日差しも強いですね。
初夏の日差しです。

朝から、トントントンと玄関を誰かが鳴らします。
黒い猫さんです。
「お届け物です」
そっちの猫さんですね。

こっちこっちと導きの小荷物です。
手紙とパンが入っています。
お手製のウインナーロールパンのようです。
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すかさず朝食代わりに、頬張る私です。
何かいつものウィンナーとは違います。
なるほど、ウィンナーもお手製のもののようです。
いつものハムロールも美味いが、こちらも少し変わっていていいですね。

お気に入りの蛤の中皿に盛り付けて、ハイチーズと記念写真です。
なにげない写真ですが、仏法世界を垣間見たような気がしました。
仏法世界の特に妙法華経の世界では、「空」というものがキーワードになります。
諸法実相です。

あらゆる物事に当てはまる仏の世界観です。
すべてのものは「空」です。
私たちの今もその中に住しています。
今の世界は正しく「仮」の世界です。

過去世、現世、来世と輪廻を繰り返します。
輪廻を前提にする以上、「空」が存在します。

「空」は「無」と位置づけられることが多いですが、「空」は時空や空間の「空」だと考えると何となくイメージ出来ます。
その「空」の中で、過去世、現世、来世とする「有相」の世界と、「無相」の世界があるわけです。
あるないを論じると、空と無と有の関係が複雑に感じます。

過去世、現世、来世とする有相の見える世界は「法」、無相の見えない世界は「妙」と二つに分けられます。
「妙」とは、「みょう」というとなんだか「みょう」なという妙ですね。

何となく感じる不思議な出来事です。
見えないけど感じる感覚でしょうかね。
仏法世界も、特に法華経では、経典に書かれていることだけでなく、そこには見えない考えや教えがあります。

それを妙義とか妙相とか「妙」という言葉を使って述べられます。
どんなものが「妙」かは悟りを開かれた方に聞いてみないと解りません。
しかし、妙と法は表裏一体であると考えています。

ちょうど多寳仏さまとお釈迦さまが一つのイスに二人で座られているようなものです。
観音様が、宝の首飾りを二つにして、一つを多寳仏さまに、もう一つお釈迦さまに捧げたのと同じです。
解りやすいビジュアルとして表現されています。

多寳仏さまが「法」・法華、お釈迦さまが「妙」・妙華のお立場です。
二つの多寳仏塔として表現されています。
この一対の状態が「蓮」ですね。
南無・妙法蓮華経と唱えます。

はまぐりのお皿が「空」なら、そこに、過去世、現世、来世の世界が見えます。
どんな人生か、どんな中身のあるものかは不明です。
でも、この三世は、繋がっています。

縁によって繋がっています。
因縁により、その答えが出るのですね。
因果応報です。

かならず、原因があって結果がある。
どの世で起きた原因かは不明です。
その結果もどの世で出るか不明です。

こういう意味で「空」は「縁起」とも言えます。
しかし、「縁起」が「空」とは言いにくいですね。
「空」の方がもっと大きな意味をもっていますからね。

「空」を「非有非空」と学問的に言われることがあります。
しかし、「空」である中にその物事があるのかないのかと言う意味では、「非有非無」であると言う方が理を得ているように感じます。
それをもう一歩、言うなら、見えるか見えないかの「法」と「妙」の例えが出来ます。

表裏一体ですから、同時に裏と表は見えません。
そこに存在していも見えないこともあります。
その状態を「無」というなら、「有」と「無」とも表記できます。
有無の相の見えざるところとも言えますでしょうかね。

もちろん、この「空」は仏の世界ですから、仏様がお座りです。
仏の座とは、一切法空是なり、の一節が浮かびます。

では、こちらから見えない世界から見ると、ちょうど逆になるはずです。
ちょうど、水面に浮かびようなものでしょうかね。
水面の下にも水中の世界があるはずです。
この見えない世界も「空」ですね。

不空という言葉があります。
不空絹索観音(ふくうけんじゃくかんのん)菩薩さまの「不空」です。
仏教書では、「不空」とは「縁起せざるもの」とか「決定有」とか「実有」とか記されています。

それでは、不空絹索観音(ふくうけんじゃくかんのん)菩薩さまの「不空」とどう意味するものなのか、私には不明です。
大胆な考えを記せば、空でない。

つまり、この見える「空」でないものです。
この見える空は、「法空」と考えれば、見えない空は「妙空」と言えないでしょうかね。

中国においては、「不空」を「妙有」という意味に解していると記載があります。
つまり、法空も妙空も、見える見えないという法と妙の立場に立って言われているのではないかと、感じます。
もちろん、仏の座は、一切の法空と妙空、これに尽きます。

仏教書では、「空」を「仮名(けみょう)」と説かれることがあります。
仮に設けられたものという意味です。

私どもは、み仏の世界に住しています。
現世も、輪廻の一つです。
仮の世界です。
苦しみも楽しみも仮の世界です。

そこにあるのは、いい縁です。
いい縁は、いい行いやいい心がけから生まれます。
「諸悪莫作・衆善奉行」
「悪いことをせずに、善いことはする」という意味です。

この現世に生まれたことに感謝して、今あるご縁を上手くいいご縁にする。
現世から来世か、そのまた来世かどこかに、このご縁が結果を出すと考えます。

「空」と言うのは、大変難しいです。
仏法の「空」と「縁起」と「中道」と「仮名」(けみょう)を同一、同意語に論じられているものも見かけることがありますが、違うものだと思います。
全く違うというのではありません。

「空」は、「縁起」とも言えます。
「空」は、「中道」とも言えます。
「空」は、「仮名」とも言えます。

見る味方によって、それぞれも正しいと思いますが、かといってすべてが一致するものの定義ではないように感じます。

ちょうどパンの盛った皿が、「空」なら、3つのパンは過去世、現世、来世です。
パンを食らって、しばし空腹を満たします。
仏縁が、いいご縁が、こちこっちと誘ってくれるような予感です。

仏教学や哲学の専門の先生方から、お叱りを受けそうです。
もちろん、難しい修行も苦行もしていません。
日々の生活の中で、花を見て、月を見て、四季の旬を食らい、酒を飲む。
ありがたいと感じ暮らす日々です。

仏縁を頂けたことに感謝の気持ちが耐えないです。
もし、ここに書いたことのいくつかが持論も含めて正解なら、来世にいいご縁を頂けるとありがたいです。
日々の暮らしの中でも、仏の真理を求めて生きたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、パン食う話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。