''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

浪曲 京山幸枝若「米屋剣法」より。 今日は大作ですよ。

昨日は、秋空の一日でした。
秋の深まり行く姿を、宇治の川の流れを見ながら、昼シャンしました。
心緩やかな一日となりました。
秋ですね。

 

先日、播州の郷里からいろんな物が届いたことは書きましたね。
少しだけ田畑で年老いた両親がいろいろなものを作っています。
里芋あり、さつま芋ありです。
もちろん、米も入っていましたね。
秋は、実りの秋でもあります。

 

播州はでは、兵庫県推奨米の「キヌヒカリ」という米を作っています。
我が家も、このキヌヒカリです。
子供の頃は、新千本、日本晴という標準米を家で作っていました。
地域や時代の流行があります。
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このキヌヒカリは、特徴があります。
温かいご飯も美味しいのですが、冷めても美味しいです。
おにぎりやお弁当にすると、ぐっと旨味を強く感じます。
お茶漬けや私の好きな湯漬けには最適です。

 

安い米は、温かいごはんは美味いけど、冷めるとまずいというのが、特徴です。
しかし、コシヒカリなどのブランド米は、お弁当やおにぎりにするという特性から、冷めても美味いというのが、絶対に必要です。

 

日本という国は、世界的に見ても変わっている国の成り立ちです。
国の豊かさを、石高つまり米で表わす国なのです。
加賀百万石と言われるように、国の大きさは石高で今でも表現します。

 

米が如何に多くできるのかが、国の豊かさの象徴です。
給料もすべて米で支給されるというのが、社会の基準とされるのが、明治までの国の制度でしたからね。

 

同じ播州の産と言えば、浪曲師の京山幸枝若さんです。
京山幸枝若さんの十八番の中に、「米屋剣法」というのがあります。
先日の浪曲特選の動画を見ました。
やはり名人芸です。

 

話の場所は、京都です。
時代は、戦国時代ですね。
吉岡又三郎と米屋の精三郎の師弟の話です。

 

あの宮本武蔵と試合をした有名な吉岡道場の祖話の話です。
後の又三郎とは違います。

 

吉岡又三郎は、紺屋の倅です。
子供の頃から剣術が好きで、16歳の時に父親から勘当され、諸国修行すること20年、1尺8寸の竹の太刀を使った「吉岡小太刀」、「竹べら剣法」というモノを編み出します。
竹べらで、真剣にも勝つというすごい使い手です。

 

この頃、剣術の世界も戦国時代と言うくらいに剣聖が世に出現します。
新陰流の上泉伊勢守信綱や、その後継の柳生新陰流柳生石舟斎、「瓶割の太刀」で有名な一刀流創始者伊東一刀斎、その弟子小野派一刀流の祖とされる神子上典膳こと小野次郎右衛門忠明、それに忘れてならないのは、奥義「一の太刀」で有名な鹿島新當流の塚原卜伝などの草々たる武芸者・兵法者の時代です。

 

塚原卜伝というと、何故だか、♪ やめてけれ やめてけれ やめてけれー~れゲバゲバ の 左ト全(ひだり・ぼくぜん)さんが歌っていた老人と子供のポルカ」を思い出します。(ちょっと懐かしいです)
雰囲気だけのものですね。

 

左ト全(ひだり・ぼくぜん)さんと言うと、黒澤映画の「七人の侍」の中で、売れ残りの饅頭を薦められながらも、無言のままに沈黙する百姓の演技が記憶に残ります。

 

こんな戦国時代の中、吉岡小太刀も世に出ます。
しかし、この浪曲の話では、まだ門弟は誰もいません。

 

丸太町で米屋営んでいるの精三郎は、妻の薦めで何か道楽を持ったらと言われます。(米屋だけに、精米の精の字を使いました)
米屋としては奉公人も5、6人使っていると言うのですから、たいした物です。

 

丸太町で米屋という設定ですが、丸太町と言うのは、東西の通りの名前です。
東の端は、白川通りの鹿ケ谷、西は新丸太町を含めると嵯峨嵐山というから、広範囲ですね。
落語「胴乱の幸助」に出てくる浄瑠璃「お半長」と言えば、柳馬場押小路と言う風に、縦と横の通りの交差する場所を示します。

 

ですから、烏丸丸太町という風に、縦と横の通りで言うのが通常です。
察するに、堀川通りから烏丸通りの丸太町で商いをされていたと言うことになるのではないかと、考えます。(なかなか深いです)

 

吉岡道場は、今出川です。
こちらも烏丸当りの今出川、今の同志社当り付近だと推測されます。
(あくまでも浪曲の話の上です)

 

この米屋の精三郎も変わっています。
家の回りにも多くの道場があります。
それを弟子の少ない道場をあえて探して入門です。

 

まだ弟子のいない吉岡又三郎は、米屋には無理、続かないと諭します。
弟子の多い道場なら、三年かかるところでも一年の修行で身に付くと考えてのことです。
断ってもしつこい米屋精三郎に稽古を付けます。

 

この道場では決まりがあります。
痛いという言葉は禁句です。
痛い時は、「ありがたい」と言う決まりになっています。
それを承知で、稽古を始めます。

 

初日は、木剣で滅多滅多にしごかれ、頭がコブだらけ、折れた木剣を杖に、家に帰ります。
生兵法は、怪我の素です。
なまじっか諭しても、聞かないので、滅多滅多に痛めつけられると、二度と来ないだろうという吉岡の考えです。
殴る方の心の痛みあります。

 

米屋は、殴られても「ありがたい」というばかりです。
何ゆえ、「ありがたい」かと言うと、殴られると痛い、ですから殴られないようにと、必死に稽古する。
それが為に、腕が上がる。
腕が上がれば、まさしく「ありがたい」という訳ですね。
変な理屈です。

 

次の日も朝日が昇れば、「おはようごさいます」と精三郎が道場にやって来ます。
これには、吉岡もあっぱれと、また「ありがたい」稽古が続きます。
1週間、このありがたい稽古に耐えます。
これに吉岡は、これなら自分の指導がいいなら、物になると本気になって教えます。

 

あれこれ、1年2ヶ月と16日経ちます。
精三郎が、吉岡に自分はどれくらいの腕前になったかと尋ねます。
「上目録(じようもくろく)」というくらいです。
しかし、慢心してはいけないと、「目(もく)」という風に諭します。

 

二人きりでいつもなぐられぱなしです。
どれだけ強くなったのか、自分では分りません。
田舎の道場なら、師匠の代稽古をしようと言うくらいの腕前です。
米屋たいしたものです。

 

ただし他流試合は、硬く禁じています。
家の近くの、卜部當蔵、當三郎という兄弟の道場があります。(卜部だけに新當流の當の字を使いました)
興味本位で、道場の稽古を覗きます。

 

それを門弟に見つかり、吉岡道場に通っていると、殴る蹴るのやりたい放題です。
その上に、吉岡小太刀を、のりべら剣法だと馬鹿にされます。
しかし、師匠の金言、「他流試合を禁ずる」の約束を守ります。

 

その為、重症をおいます。
20日から1ヶ月ほど寝込むくらいの大怪我です。

 

精三郎が妻に言います。
師匠が見舞いに来るようなことがあっても、こんな無様を見せるわけはいかないと、絶対に奥に通すなと、強く言い放ちます。

 

そうこうして、1週間後、吉岡が不審に思い、精三郎の米屋にやって来ます。
妻は、流行病にかかったと嘘を言って、帰ってもらうようにいいます。
しかし、師の吉岡は、弟子が流行り病になって、病が移るなら本望だと叱り飛ばします。
師弟と言えば、親子も同然、三千世界に子を見舞わない親がいようはずはないと言い放ちます。

 

ここは、うるっとなるいいところです。(人情物には弱いです)
精三郎は、これを布団の中で聞きながら、「ありがたい」といいます。
ええ話です。
これから、吉岡が卜部兄弟の道場に、仕返しに行くかと思いきや、「♪ちょうど時間となりました~」と、「あー」と言う声の場内です。

 

なかなかの名演です。
名人芸の話芸、浪曲です。
曲師 岡本貞子、ギターの京山幸光の音も、名演を盛り上げます。
浪曲評論家の芦田淳平の上品な語り口も、話芸の妙に引き込みます。

 

仏教の経典、妙法華経の中に、「諸仏。如来は是れ我等が慈父なり」と言う一節があります。
師弟の関係は、み仏と私のとの関係にも似ています。

 

仏様のご縁を頂いているというのは、大変ありがたいです。
観音様のお力で、刀杖の災難から逃れさせて頂けます。
ありがたいです。

 

こんな強い守護を受けて生かさせて貰っています。
ありがたいです。
木刀で殴られてはいませんが、「ありがたい」と言葉がでます。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごさせて頂けますように、祈ります。

 

最後まで、おいしい米の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。