''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

古今伝授の行平を見て感慨深いです。今日は大作ですよ。

今日は、大変な秋晴れですね。
朝から首の治療に病院に行ってました。

 

病院に行く前に、昨日の仕事のトラブルを朝一番に、電話処理です。
いろいろと、次から次にトラブルが出ます。
それも一つ一つ前に進めるしかありません。

 

首の痛みを取る為に、週に一度は、病院に行っています。
その後、その足で荷物の発送に出向きました。

 

晴天の秋晴れと違って、心は曇り空です。
人生、晴れる日もあれば、曇る日もあります。
悪いこともあれば、いいこともあります。
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『新・日本名刀100選』(佐藤寒山著 秋田書店)より。

 

いいことと言えば、先日の日曜日、細川家の至宝展で、「古今伝授の行平」の太刀に出会えた。
(ウルルン風に言いたいですね)
もちろん、国宝ですね。
豊後国行平は、後鳥羽院番鍛治の一人とも聞きます。
大変有名な刀工です。

 

行平の父・僧定秀も有名な刀工です。
彦山の僧であったと伝えられています。

 

とにかく上品な太刀です。
太刀姿が細身であり、腰反りが高いですね。
刀の腰の辺りから、反りが付いています。
どこが腰だって?と言われると、彫り物辺りです。

 

平安の終わりから、鎌倉の初期の活躍された刀工です。
その時代には、平安期の反りの高い太刀姿が残っています。
ありがたいことに、磨上げて短くなっていません。
茎も生ぶで、雉子股形の姿です。

 

永青文庫では、皮包太刀拵が付いています。(前期だけの展示です)
こちらも、立派な拵えです。
名刀に、釣り合っています。

 

豊後国という所からも、九州の刀工です。
九州の刀工も、この時期前後にも、三池典太光世、薩摩の波平と、名工が存在します。
前田家の秘宝中の秘宝・三種の神器的、大典太光世が思い出されます。
天下五剣と称せられています。
名刀中の名刀です。

 

同じ太刀でも、大夫と違います。
切先が猪首で、少し寸が短いです。
力強い印象を受けます。

 

その昔、前田の息女(宇喜多秀家の妻・豪姫)が病気になった時、秀吉公の秘蔵のこの大典太光世を借りて、枕元に置くと平癒した。
それを秀吉公に返すと、また発病することになり、これが三度続いたと聞きます。

 

そして、前田利家公が、そのまま拝領したと、よく言われています。
前田家の記録とは違いますがね。
不思議なことです。

 

こちらの太刀には、鬼丸拵えという黒塗の皮包の太刀拵えが付いています。
こうした拵えは、南北朝から室町時代に流行したとも記されています。
概ね、我愛読書『新・日本名刀100選』(佐藤寒山著 秋田書店)の引用です。

 

それらの名刀を並べても、私は「古今伝授の行平」、名刀中の名刀だと感じますね。
刀身に彫り物があるのも、特徴です。
本によれば、この行平が、刀身彫り物の祖と言っています。

 

佩表には、龍の彫り物と梵字で「カーン」(不動明王)と「サ」(観世音菩薩)に見えます。
佩裏には、役行者小角(えんのぎょうじゃ)みたいですね。
そして、梵字は、バイ(毘沙門天)に見えますね。

 

太刀ですから、佩表に銘を彫るのが一般ですが、佩裏の銘が彫ってあります。
少し変わった刀工だと、本の解説には、書かれています。
梵字もそれほどの意味は、なかったのかも知れません。
そこに意味を求めても、何かあるのか、ないのか私には分かりません。

 

刀の出来もさることながら、この太刀には古今伝授という由来が付いています。
この太刀は、もともと細川幽齋公の愛刀であったといいます。

 

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで、東軍の組していた幽齋公が丹波田辺城(隠居城)に籠城の際、幽齋公が死んでは、家定卿以来、歌道の古今伝授の秘法が、消えてしまうと、弟子の八条宮さまが、兄である時の帝・後陽成天皇に奏上して、烏丸大納言光廣卿らが、戦の仲裁に遣わせたといいます。

 

幽齋公は、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から、古今伝授を受けたと伝わっています。

 

幽齋公も武人です。
この仲裁も断り、城を枕にと籠城、その代わり歌道の古今伝授の秘法を、烏丸大納言光廣卿に伝授しれた際、その証明にとこの古今伝授の行平を贈ったと言われています。
その時の様子も、「古今伝授ノ図」として、鷹司廉煕筆の絵によって、細川家に伝わっています。

 

後に、帝の勅命により、戦を細川の敗北と言う形になり、これを受け入れます。
この戦は負けても、味方の東軍勝利となり、息子忠興(後の三斎)も関ヶ原では戦功をあげます。
徳川の世になれば、勝利への貢献として恩賞があります。

 

家康公から、丹波宮津12万石から、豊前中津藩39万9,000石に加増、その後、豊前40万石の小倉藩に移り、大大名となります。
寛永9年(1632年)には、三男忠利が肥後熊本藩54万石の太守となります。

 

この太刀が昭和になって、この太刀が売りに出たのを、子孫の護立氏が再び細川家の宝として所蔵された。
何と300年後に、里帰りしたことになります。
この辺、素晴らしいです。

 

この太刀の出来と、この古今伝授の由来を足して、国宝です。
歴史を知った上でみると、感無量に感動します。

 

それを目の前にして見た事になります。
今回で、実は二度目です。
前は、大阪市立博物館で見た事があります。
縁があるのでしょうね。

 

菓子や茶道にも、一子相伝の秘法があるとも聞きます。
茶道の方は、代が変わる時に、数名の高弟の方と一緒に、新しい家元に伝わるとも聞きます。
利休居士には、茶の湯に、「秘する花」はないと言われています。
それが、真が否かは、私如きの凡夫に分かろうはずもないです。

 

歌道にも茶道にも、こうした精神世界があるが故に、奥が深いのでしょうね。
幽齋公、その子三齋公も、文化的な貢献があったことは間違いないです。

 

利休居士が切腹を命じられたとき、利休殿にゆかりのある諸大名の中で、その舟を密かに見送った者は、忠興公と古田織部公だけであったとされる。
家老の松井家のお宝にもありました。(Wikipedia参照)
これらを見ると、余計に感慨深いです。

 

文化人としての、細川家は、落語や浪曲にも登場する人気の大名家です。
名人・京山幸枝若浪曲「竹の水仙」でも、参勤途中の細川の殿様、左甚五郎作の「竹の水仙」を見つけ、家臣大槻玄蕃(げんば)に買いにやります。

 

竹の水仙に、小判200両に驚き、バカにされたと、細川の殿様の言上します。
値段が高いので、買えずに帰って来たと、こう話します。
「そうであろう」と納得の殿様です。
「で如何ほどであるか?」

 

玄蕃は、指を二本差し出します。
「高いと言うからには、2万両か?」

 

大名の物知らずにも程があるとして、少し主人をバカにて居ます。
「いえいえ、200両です」

 

「気が向かねば、千両万両でも仕事をしない左甚五郎の竹の水仙を、たかだか200両で買わずに帰ったと言うのであれば、役目しくじりで家は断絶、身は切腹の沙汰を下す」
と脅かされた玄蕃です。

 

どっちが世の中のことを知らなかったのか、思い知らされます。
それにしても、細川の殿様は凄いです。
物を見る目があったものですね。
浪曲や落語の話だけでは無いようです。

 

ああ、家臣玄蕃は、あわてて宿屋に戻り、宿屋の主人に売ってくれと頼みます。
「さっき売れた」と嘯くような隠します。
さっきは、200両だったが、今度は300両と値を上げます。

 

もちろんと、300両を渡して、殿様の陣屋に戻ります。
300両で売ってくれなかったら、玄蕃が音を上げることになりますからね。
(ここしか、笑うところないですよ。ねぇー、とおるちゃん!!)
もう一度、名人・京山幸枝若浪曲「竹の水仙」が聴きたくなりました。

 

はやはやいろんな縁があるものです。
♪ちょうど時間となりました。

 

今日は、久しぶりの長編大作になりました。
歌道も茶道も、作刀も話芸も奥が深いです。
やはり、その道にも、暗いといけせんね。
太田さんなら、同感と言ってくれそうです。
(ここも軽く笑って下さい。ねぇー、とおるちゃん!!)

 

「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」
それは、山吹の里の話ですね。
講釈師、見た来たような話に、私の話は「嘘吹きの里」の話になりました。

 

いろんな縁が繋がっています。
ありがたいことに、私は仏縁を頂いています。
ありがたいと感謝しています。
日々の暮らしの中で、楽しさを見つけて暮らしています。

 

細いから出た太い話に、こんなに話を広げてしまいました。
こんな日もあります。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、越中褌みたいに長い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。