''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

稲荷の月と配所の月 より。

今日も寒かったですね。
いつものように、4時起きです。
京都駅には、6時半に居りました。

 

こんな時間ですが、電車は大変混んでいます。
ここから大阪に向かおうと言うのではありません。
滋賀県に向かいます。
少し都落ちの気分です。

 

滋賀県に入って驚いたのは、雪が積もっています。
大津辺りなら、数センチですが、東に向うに連れて、もう少し積もっています。
寒いはずです。
京都では雪はなかったです。

 

家を出た頃は、真っ暗です。
帰りも少し遅い目、真っ暗です。
昨日は、少し早い目に帰れました。
イメージ 1

すると、稲荷大社の鳥居の辺りで、月が出ていました。
今日も月は奇麗です。
満月に近いですね。

 

家の近くで見る月は、何も優雅です。
しかし、他府県に仕事で行った先の見た月は、何となく物悲しいです。
朝家を出るときも、帰りも真っ暗でしたら、気持も落ちます。
流刑地で見る月は、どんなものなんでしょうね。

 

配所の月と言う言葉があります。
私の今月のサブテーマは、「赤穂浪士」です。

 

吉良家の当主、左兵衛義周は、赤穂老子の討ち入り後、「左兵衛その方仕方不届きに、屋敷と領地は召し上げ」の沙汰を受けました。
何の意味もなく、ただ、吉良家の当主であっただけです。

 

諏訪藩にお預けです。
もちろん、松の廊下の刃傷事件で、弟・大学も浅野本家にお預けです。
まさに、喧嘩両成敗の沙汰が下った。

 

左兵衛義周は、21歳の若さでこの世を去ります。
流罪の罪人の扱いですから、死亡したからと言って、火葬も埋葬もできません。
幕府より検死役として、御書院番石谷七之助が到着するので、遺体は塩漬けです。

 

運命さえ間違わなければ、上杉の当主にも、支藩の藩主にも、事がなければ、高家吉良の当主であったはずです。
上杉謙信公の血筋も、源氏の血筋も、入った正当な武人であったはずが、配所の月をどのような思いで見たのか、それが21歳の人生に現れています。

 

赤穂浪士も遺児達に、処断が下さりれています。
大石内蔵助次男・吉千代(13歳)を含め、総勢の19人が遠島の沙汰です。
15歳以上の者について、刑が執行されます。
ただ、15歳未満の者は、15歳になると遠島と決まっています。

 

この時点で、15歳以上であったのは、間瀬定八、吉田伝内、中村忠三郎、村松政右衛門の4名でした。
4月28日、佃島から出航する流人船で、伊豆大島に流されました。
この4人は、協力して島で暮らしていたようです。

 

4年後の宝永3年(1706年)、出家を条件に赦免されましたが、間瀬定八は、その前年病没しています。
哀れな結末です。
同じ月なれど、配所に見る月は、悲しいでしょうね。

 

間瀬久太夫は、討ち入れに参加した子・孫九郎と流罪先で死去した定八の二人の子供を亡くしたことになります。
親子3人で、浅野家に忠義を尽くしたことになりますね。
47人の中にも、親子や兄弟など血縁の関係も多いです。
それが、成功した要因の一つかもしれません。

 

誰も得しなかったのが、赤穂事件だと言えます。
それでも、あなたは忠義を尽くしますか?

 

「武士道とは、死ぬことと見つけたり」、葉隠れの一節が、思い浮かびます。
この平穏な社会に生まれたことに感謝です。

 

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁に感謝しています。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、運のツキの薄い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。