本多孫太郎長員(ほんだまごたろうながかず)
越前府中 本多家(本多内蔵助家)3代当主。
寛文9年(1669年)2月7日、福井藩家老・本多昌長の四男として府中にて誕生。
同年5月、父の死去により1歳で家督と4万石の知行を相続。
幼少の為、叔父・正房が後見と陣代を務めた。
貞享3年(1686年)藩主・松平綱昌が改易となり、福井藩は所領を半知の25万石に削減され、長員も知行2万石となる。元禄12年(1699年)綱昌の長男・浅次郎を養子(長教)に迎える。享保2年(1717年)1月23日没。享年49。家督は養子・長教が継いだ。
赤穂浪士歌入りの当事者である吉良義央の屋敷の北隣東側に長員の屋敷があった。
長員は、越前常住で本所の屋敷には、江戸常府の家来だけしかいなかったとある。
資料では、福井家家老陪臣ながら知行2万石の大名並みの石高だか、旗本と表記されているものもある。
『ウイキペディア参照』
赤穂浪士の一人堀部金丸の後妻の弟は、江戸常府本多家次席留守居の忠見政常である関係から、事件後堀部の妻子が長員屋敷の家臣長屋にある忠見宅に引き取られた。堀部家の家督を継承した堀部言真は忠見家の出身。
妻 わか (堀部弥兵衛金丸の後妻)
福井松平家家老本多孫太郎家臣、忠見扶右衛門の姉。(妹ともある)
切腹後2月13日過ぎてから、密に本多孫太郎家中にいる忠見沢右衛門方へ引き取られる。
安兵衛の妻や文五郎と共に移り住むことになるとある。
養子 文五郎(堀部忠兵衛言真)
安兵衛の入籍前に養子にしたが幼少であること、妻の血筋である事が理由で後継の許可が下りなかった。のち文五郎は弥七(忠兵衛言真)と改名して安兵衛の後を継ぎ、300石で熊本の細川家に召し抱えられるとある。
実子 ほり (きち 幸) 安兵衛の妻
安兵衛の妻であった「ほり」は文五郎のもとで、静かに身を守り、享保元年八月六日に四十歳で没。