今日もいいお天気です。
風もなく、暖かです。
昼前から、病院に首のマッサージに出かけました。
久しぶりにマッサージしもらって、肩も首も凝っていました。
風もなく、暖かです。
昼前から、病院に首のマッサージに出かけました。
久しぶりにマッサージしもらって、肩も首も凝っていました。
年末年始の仕事の疲れが、溜まっていました。
それを揉み解し貰って、少し体も軽くなりました。
そのまま、家に帰るには少し勿体ないと考えて、伏見稲荷大社に向かいました。
参拝と言うのでなく、散歩くらいのつもりです。
それを揉み解し貰って、少し体も軽くなりました。
そのまま、家に帰るには少し勿体ないと考えて、伏見稲荷大社に向かいました。
参拝と言うのでなく、散歩くらいのつもりです。
紅白にも、福山雅治さん、中車さんと一緒に出演されていました。
日曜日には、大河ドラマの『八重の桜』の後、猿翁さんと中車さんの親子の特集を見てしまいました。
今年の歌舞伎は、市川一門の話題で持ちきりであったような気がします。
日曜日には、大河ドラマの『八重の桜』の後、猿翁さんと中車さんの親子の特集を見てしまいました。
今年の歌舞伎は、市川一門の話題で持ちきりであったような気がします。
昨年来の本家の市川団十郎家の不祥事で、歌舞伎人気にも陰りがあった分、今年は大きな襲名が続きましたからね。
中村勘九郎さんの襲名も話題になりました。
その分、勘三郎さんの他界は、余りにも惜しい気持ちです。
中村勘九郎さんの襲名も話題になりました。
その分、勘三郎さんの他界は、余りにも惜しい気持ちです。
やはり、テレビの影響力は凄いです。
と言いながら、その影響を受けたミーハーな私でもあります。
病院の帰り、歩いて行けますからね。
と言いながら、その影響を受けたミーハーな私でもあります。
病院の帰り、歩いて行けますからね。
この摂取院の地蔵尊の縁起によれば、慶長13年(1608)3月、稲荷山麓の西村一門方へ僧が一人来て、夢のお告げによって、比叡山のキララの谷に、年久しく埋もれていた子安腹帯の地蔵尊であったと言われたと言う事です。
この後、延宝年間(1673年~)に伊勢津藩の城主・藤堂和泉守の室様に安産あったようです。
また、伏見院様こと、伏見宮貞致親王の姫・真宮理子女王が、徳川吉宗公に輿入れ、懐妊されたことも、この地蔵尊のお力によると伝えられています。
そのお礼に、米30俵と葵の御紋付膳椀の寄進があり、と縁起には記されております。
また、伏見院様こと、伏見宮貞致親王の姫・真宮理子女王が、徳川吉宗公に輿入れ、懐妊されたことも、この地蔵尊のお力によると伝えられています。
そのお礼に、米30俵と葵の御紋付膳椀の寄進があり、と縁起には記されております。
驚くことに、この光明山摂取院のあった場所に、天福元年(1233年)道元禅師が、最初に伏見に開いた興聖寺があったと言う事です。
この後、比叡山に追われて、越前に移ります。
越前の永平寺(前身の大佛寺)の前のお寺と言うことになります。
この後、比叡山に追われて、越前に移ります。
越前の永平寺(前身の大佛寺)の前のお寺と言うことになります。
この地蔵尊、最初は江戸時代の作と考えられていましたが、平成2年の修理の際に、調査されて、体内から古い銘文も発見され、その同像の特徴から典型的な平安時代末期作と推定さ、現在京都府指定文化財に特定されています。
しかし、この自称・仏像ハンターの私から見ると、もう少し謂れがあれば、重文か国宝級に出世しそうな予感すら感じる地蔵尊ですね。
個人的には、道元禅師と何やら因縁がありそうな地蔵尊だと感じます。
とりあえず御顔を見ると、徳がありそうで何やら、ありがたいです。
個人的には、道元禅師と何やら因縁がありそうな地蔵尊だと感じます。
とりあえず御顔を見ると、徳がありそうで何やら、ありがたいです。
ノウ・マク・サン・マン・ダ・ボ・ナン・カカカ・ビ・サンマ・エイ・ソワカ(ちょっと丁寧に)
日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、高尚に縁ある話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。