''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

マグロと鯛の2種盛りの刺身から、大悟できるか より。

今日12日は、母の日です。
親不孝者の私は、母に何も送っていません。
申し訳ないと思う気持ちでいっぱいです。
でも、私は、毎年京都七条の赤尾屋の漬物を、送る事が多かったです。

今年は、先日のゴールデンウイークに、京都にやって来ましたからね。
それで十分でしょうね。
孝養は、物を送ることではないと、言い訳しています。
とは言え、今日も仕事でした。

母の日も、自分の誕生日も、親に感謝する日であると言うのは、同じです。
でも、照れがありますから、そんなことは言いません。
父も母もすでに、70歳を越えていますから、いろいろ思う自分があります。
ああしておいたら、こうしておいたらと言う、悔いは残さないようにしたいです。

年に何度か逢っています。
それが一番の孝養かと思います。
でも、父の日や母の日は、ありがたいです。
何か形にできる日ですからね。
イメージ 1

何かめでたいと言えば、これマグロと鯛、紅白の2種盛の刺身です。
何か雰囲気だけでもあるでしょう。

禅の言葉、禅語の中にある公案に「父母未生以前の一句」があります。
「父母未生以前の一句」とは、「まだ母の胎内を出ない先、未だ生まれいづるその前の自分の心境を述べてみよ」という事のようです。
最初の頃に出される公案と聞きます。

同じように、最初に出される公案の一つに、「隻手音声」もあると聞きます。
両手を叩いて、どちらの手が鳴ったのかと聞かれる禅語です。
「右」でも、「左」でも、いいですが、常識の「両手」はダメです。
常識と言うものを打破しないと、仏の世界を大悟できません。

仏の世界は、一種特別です。
常識ではありません。
もちろん、一休禅師のトンチでもありません。
常識と言う枠に捕らわれては、仏の世界は見えません。

法華経の中でも、この世は、仮のもの、つまり義空であると言われます。
そのお釈迦様の言葉に、それを聞いた者は、動じません。

香厳禅師と言えば、中国・唐末の禅僧で、出家する前から頭脳明晰聡明で、一を聞けば十を知るほどに博識があったと言います。
当時禅界の第一人者・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師に師事した人物ですね。
最初に出された公案に、行き詰まり、挙句の果てに、師に教えを請たが、「教えては、後々うらまれることになる」と教えてもらえず、とうとう山を降りた。

秀才にして、初めての挫折だったのかも知れません。
この辺りまでは、私とそう違いはありません。
挫折のばかりの我人生です。

ある時、掃除をしていたら、掃いた石が竹箒にカチンと当たった。
その音を聞いて大悟したと聞きます。

この公案の意味を理解できた時に、出来た禅の言葉が「一撃、所知を忘ず」だと物の本に知るさていました。
過去の私の記事にも、書いています。

頭で考えるのでなく、会得することに極意があるようです。

常識では理解できない禅語に、「吸盡西江水」(ぎゅうじんすせいこうのみず)と言うのがあります。
早い話が、満々とたたえる西江の水を一気に飲み干しくらい出来ないと、悟りの境地に達することが出来ると言う様な意味だと、私は解釈しています。

琵琶湖の水でも、同じです。
湖の水を、人が一気に飲めるはずはないと言うのは、相対観に生きる私たち人間の話です。
絶対観の仏の世界なら、分けなく容易いことです。

それは、西江の水と思うからですね。
コップに入った西江の麦水(ビール)だと思えば、一気に呑めますよね。
もちろん、何杯でもお替わりも出来ますよ。

「一口吸盡西江麦水(ビール)」でどうでしょう。
それなら、私も出来きます。

それは、トンチではありません。
何事にも、常識で捕らわれず、会得することが必要なんでしょうね。
いまだ、凡夫のままです。

父母未生以前の一句、無から有を生じています。
それでも、過去世縁に因り、現世があります。
お釈迦様にも、多くの過去世が存在しています。

今あるのは、その過去世の善知識の為ですが、その知識だけでなく、妙義に基づいた見えない会得があって初めてだと言う事も分かります。

過去世、現世、来世の輪廻の中に、私たちは居ます。
今だ解脱出来ませんし、私にいたっては、環状線の電車のように、最終地点すら見えない状態です。
一歩でも、近づきたいです。
ますば、父と母の恩と感謝を、省みる日が、母の日であり、父の日であり、そして、自分の誕生日かも、知れませんね。

今あるのは、偶然ではありません。
必然だと、会得しています。
ありがたい仏縁に導かれて、ここに居ます。
ここに生かされています。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁に感謝して生かせて貰っています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏にくらしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、「今日もこの刺身の盛合せで、猪口に熱燗の日本海でも、一口に呑んでみようか」とうそぶいた話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。