''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

一休禅師の「遺偈」の書に見る より。

雨が強く降っています。
台風の影響でしょうね。
こんな時期に台風とは、少し意外です。
雨の日にあっては、晴耕雨読と参りましょう。

 

2015年5月10日の毎日新聞、日曜くらぶの中に、「書の美」と言う島谷弘幸氏(九州国立博物館長)の記事が目につきました。
写真の書は、一休禅師こと、一休宗純(そうじゅん)[1394~1481]の「遺偈」の書です。
一休禅師と言えば、とんちの一休さんで、子供の頃からアニメでも馴染みがありました。
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その辞世の詩である「遺偈」は次のようなものでした。
  須弥南畔
  誰か我が禅を会(え)す  (記事では、会(た)せん)
  虚堂(きどう)来るも   (記事では、来るなり)
  半銭に直(あたい)せず 
(読み下しは、酬恩庵一休寺のモノを参考にさせて頂きました)

 

意味する所は、「この世界、誰かわが禅をわかろうか、虚堂が来たって半文にもならんわ」(富士正晴氏訳)
記事も同じく、「この世の中に、誰か私の禅を理解するものはいないであろうか。誰もいない」と続きます。

 

要するに、一休さんの禅は、なかなか理解できないし、理解されないと言う事でしょうね。
確かに、風変わり過ぎて、その行いは逸脱しているとも言えます。
悟りを乗り切った所の深い悟りの境地かもしれません。

 

書の中にある虚堂(きどう)とは、中国宋時代の名僧、虚堂智愚(きどうちぐ)ですよね。
一休さんは、この虚堂(きどう)の禅を尊重していたと記事にもあります。

 

宋に渡った、大応国師の(南浦紹明)の師匠です。
この南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続きます。
そう、大徳寺の法系(法嗣の系統)ですね。

 

一休さんも、文明6年(1474)勅命を受けて、81歳の時に、大徳寺第47世住持となるようです。
一時期、酬恩庵大徳寺の二つを住持するようになり、その行き来使われた籠が、酬恩庵残っているようです。
酬恩庵の解説によると、大徳寺の復興に取りかかられ、尾和宗臨の財力を得て、文明11年(1479)に法堂を落成させ、天皇の期待に応えたようです。
86歳の時であったと記されています。(http://www.ikkyuji.org/hitoyasumi/takiginosato_5.html)
一休さんは、80歳を回って大事業を成功されたプロデューサーでもあったみたいですね。

 

お茶目の所が、書に見られます。
そう最初の「須弥南畔」の南の字が忘れたのか、小さいです。
これも、ご愛嬌です。
それとも、大きな意味があるやもしれません。

 

東西南北の隠れた意味合いかもですね。
わざわざ、自分の名前を「東海純一休」と一段下げて書かれていると、新聞の記事に解説がありました。

 

一休さんは、文明13年(1481)11月21日、88歳で天寿を全うされました。
その亡くなる前に書かれた書のようです。
意味深いです。

 

そうそう、一休と言う名前の由来ですが、「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、師の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)より一休の道号を授かるとあります。
なお「有ろじ(有漏路)」とは、迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは、悟り(仏)の世界を指すようです。(ウィキペディア参照―)

 

今宵にぴったりです。

 

やはり、仏の道とは、細い裏路地からでも、休み休み歩めば、長安に至るのですね。
あると思えば、迷いも見えます。
あるやないと考えなければ、そこには迷いも欲もない純粋な仏の須弥山の頂きに到着するのでしょう。

 

その須弥山と言う山に対して、一休さんは、こんな歌も詠まれていますね。
「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」
なかなか深~いです。

 

こんな禅の悟り人の一休禅師の禅とは、何なのか私のような凡夫に分かろうはずもありませんが、もし、隠れた隠語があるなら、こう見ます。
仏法世界の禅の世界で、不動でぶれない北斗を見つつ、西江の水を一気に飲干しましょうか、それとも東海の海水を飲干しましょうか、それとも、琵琶湖の湖水か、東山の鴨川の川水でも、いいですよね。

 

凡夫の私には、晩酌のコップのビールを、西江の水に見立てて、一気に飲干しだけです。
「一気吸儘(ぎゅうじん)す西江の麦水」と言うのが、今日のオチです。
それとも、「美人の○水」を吸っちゃ、ダメダメです。

 

一休禅師の言葉に、深みを感じます。
私の最後の言葉も、「死にとうない」でしょうね。
同じ「死にとうない」でも、全く次元の違うものでしょう。

 

ありがたいことです。
やはり、ありがたいことです。
常に、お蔭さまです。
ありがたいですね。
人は、生かされています。

 

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、一休みするまもなく、活路(かつろ)も見えないまま、無計画(むけいかく)な話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。