国の為に、多くの人が犠牲になって、今日があるのです。
そんな方の御霊を、このお盆の時期ですから、穏やかに過ごして頂きたいと念じます。
そんな方の御霊を、このお盆の時期ですから、穏やかに過ごして頂きたいと念じます。
日本軍の将校くらいになると、軍刀の携帯が許される為でもありました。
ただ、戦地に持って行くような軍刀は、本来の刀の作り方をしたものではないものが、大半です。
それだけ、急ごしらえの軍刀の用意が出来ません。
単なる権威の象徴程度です。
ただ、戦地に持って行くような軍刀は、本来の刀の作り方をしたものではないものが、大半です。
それだけ、急ごしらえの軍刀の用意が出来ません。
単なる権威の象徴程度です。
ただ、旧士族当りになると、家の家宝の刀を軍刀にしていた事もあるようですね。
明治の初めの陸軍少将・桐野利秋は、九条家より拝領の綾小路定利の太刀をサーベル仕立ての軍刀にして、軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用したと言います。
後の桐野利秋は、人斬り半次郎と呼ばれた薩摩の中村半次郎です。
明治の初めの陸軍少将・桐野利秋は、九条家より拝領の綾小路定利の太刀をサーベル仕立ての軍刀にして、軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用したと言います。
後の桐野利秋は、人斬り半次郎と呼ばれた薩摩の中村半次郎です。
ここまでは、明治の話に思えますが、家の刀を、軍刀にし直した方もいたと聞きます。
それらも、現地で接収です。
これは、止むを得ません。
戦で負けたのですからね。
しかし、敗戦した国内で、武器の接収として、集められた刀は、帰宅の赤羽の米軍第八軍に集められたので、俗にこれらの接収刀剣類を「赤羽刀」と呼ばれることになりました。
それらも、現地で接収です。
これは、止むを得ません。
戦で負けたのですからね。
しかし、敗戦した国内で、武器の接収として、集められた刀は、帰宅の赤羽の米軍第八軍に集められたので、俗にこれらの接収刀剣類を「赤羽刀」と呼ばれることになりました。
当時の刀剣関係者の尽力により、昭和20年に約5500本余りが、東京国立博物館の保管に移れた。
昭和20年代には、一部所有者の判明した者に、返還されたこともあったようです。
平成7年議員立法により、「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立して、道筋が付けられたと聞きます。
昭和20年代には、一部所有者の判明した者に、返還されたこともあったようです。
平成7年議員立法により、「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立して、道筋が付けられたと聞きます。
だだ、未だに所有者の分からぬまま、錆びていく日本刀が多くの運命を示しています。
名刀と分かり研磨された物も多くありそうです。
写真は、右から、末行の太刀、真ん中が、重包の刀(筑州住源信国重包)、そして、左の薙刀は、越中守正俊作のものです。
今でも、高級車が買える程の名刀です。
名刀と分かり研磨された物も多くありそうです。
写真は、右から、末行の太刀、真ん中が、重包の刀(筑州住源信国重包)、そして、左の薙刀は、越中守正俊作のものです。
今でも、高級車が買える程の名刀です。
刀は武士の魂とも言いますが、そんな危険の凶器としての日本刀ではなく、千数百年以上前から培われた刀の製法や歴史は、日本の歴史に無くてはならない歴史の象徴でもあります。
日本の象徴・天皇にあっても、その即位に当っては、歴代の天皇家伝来の三種の神器の一つ「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)も、日本の象徴そのものかもしれません。
日本の象徴・天皇にあっても、その即位に当っては、歴代の天皇家伝来の三種の神器の一つ「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)も、日本の象徴そのものかもしれません。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、知られない歴史に立ち(太刀)返りたい話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。