''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

敗戦と共に、忘れ去られる「赤羽刀」 より。

戦後70年目の終戦の日が、いろいろな政治的な話題になっていましたね。
当然と言えば、当然の事です。
一国の総理が、過去の日本の歴史を語るわけですからね。
単なる談話としての話ではありません。

国の為に、多くの人が犠牲になって、今日があるのです。
そんな方の御霊を、このお盆の時期ですから、穏やかに過ごして頂きたいと念じます。

敗戦したと言う事実同時に、いろんな日本の文化が、封印されました。
もちろん、時代劇の仇打ちの話は、ご法度です。
ですから、忠臣蔵も、封印されました。

それ以上に、ポツダム宣言を受諾したと言う事により。武器類の接収がありました。
戦争現場でも、現地で武器の接収が行われています。
この際に、日本刀などの武器を手土産に持ち帰った兵士もあったと聞きます。

日本軍の将校くらいになると、軍刀の携帯が許される為でもありました。
ただ、戦地に持って行くような軍刀は、本来の刀の作り方をしたものではないものが、大半です。
それだけ、急ごしらえの軍刀の用意が出来ません。
単なる権威の象徴程度です。

ただ、旧士族当りになると、家の家宝の刀を軍刀にしていた事もあるようですね。
明治の初めの陸軍少将・桐野利秋は、九条家より拝領の綾小路定利の太刀をサーベル仕立ての軍刀にして、軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用したと言います。
後の桐野利秋は、人斬り半次郎と呼ばれた薩摩の中村半次郎です。

ここまでは、明治の話に思えますが、家の刀を、軍刀にし直した方もいたと聞きます。
それらも、現地で接収です。
これは、止むを得ません。
戦で負けたのですからね。
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しかし、敗戦した国内で、武器の接収として、集められた刀は、帰宅の赤羽の米軍第八軍に集められたので、俗にこれらの接収刀剣類を「赤羽刀」と呼ばれることになりました。

当時の刀剣関係者の尽力により、昭和20年に約5500本余りが、東京国立博物館の保管に移れた。
昭和20年代には、一部所有者の判明した者に、返還されたこともあったようです。
平成7年議員立法により、「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立して、道筋が付けられたと聞きます。

だだ、未だに所有者の分からぬまま、錆びていく日本刀が多くの運命を示しています。
名刀と分かり研磨された物も多くありそうです。
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写真は、右から、末行の太刀、真ん中が、重包の刀(筑州住源信国重包)、そして、左の薙刀は、越中守正俊作のものです。
今でも、高級車が買える程の名刀です。

家伝来の名刀だと思われます。
持ち主の分からぬままの、戦後70年です。
今では、日本刀の復権も果たして、所持する事も、売買する事も出来ます。
何より、日本文化の時代劇が、見られます。

刀は武士の魂とも言いますが、そんな危険の凶器としての日本刀ではなく、千数百年以上前から培われた刀の製法や歴史は、日本の歴史に無くてはならない歴史の象徴でもあります。
日本の象徴・天皇にあっても、その即位に当っては、歴代の天皇家伝来の三種の神器の一つ「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)も、日本の象徴そのものかもしれません。

二度と、無益な戦争にならぬように、今一度歴史の中に、赤羽刀も記憶に止めておきたいです。
民あってもの、国です。
平和な時代に生まれたことにも感謝したいです。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、知られない歴史に立ち(太刀)返りたい話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。