''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

嫁の戦利品 桑名名物 安永餅 より。

やはり、昨日も雨降り土曜日になりました。
もう少し天気が持つかと思っていましたが、そうは問屋がさせません。
天気予報も、なかなか外しませんね。
不利な情報は、「聞きたくない!聞きたくない!」と思うのものかもしれませんね。

 

そのフレーズを聞くと、今は亡き、チャンバラトリオの頭(かしら)南方英二さんを思い出します。
まだまだあの頃は、チャンバラを取り入れた剣劇のコントもありましたよね。
音曲漫才もまだまだ残っていましたね。
それに懐かしい浪曲ベースの音曲漫才の巨匠・宮川左近ショーも懐かしいです。

 

「♪ 毎度~ 皆様 お馴染みの お聞き下さる 一節は 流れも清き 宮川の 水に漂う 左近ショウ…」、で始まるテーマソングも懐かしいです。

 

当時のそれを思い出すべき、パロディの『右近ショウ』を、今は亡き・桂吉朝(左近役)、桂都丸(現在の桂塩鯛、一夫役)・桂む雀(照夫役)が、読売テレビの「平成紅梅亭」の企画のモノマネは、今でもユーチューブで見ても笑えます。
子供だった私としては、今オリジナルの宮川左近ショーも見ても楽しめます。
それ以上に、桂吉朝(左近役)のパロディ版も楽しめますね。

 

現代でも、それらをまねてやっても、空気感が伝わらないでしょう。
当時のライブで見ていた人の年齢層も高く、音曲漫才で且つ、関西だけの芸人さんと言う限定では、東京受けしませんからね。

 

二番煎じは、どうも頂けませんね。
まさに、「その手は桑名の焼き蛤」です。(昭和感満載ですね)

 

桑名の名物が、現地で食べる焼き蛤から、土産物ベースの「しぐれ煮」に変わったのにも、当時の需要と供給の関係が働いています。
同じく、桑名名物と言えば、「銘菓 安永餅」だと聞きます。
イメージ 1

嫁が仕事場から貰って来た戦利品です。
当時は、丸い焼き餅だったのを、持ち運びしやすいように、長くなった餅へと需要と供給の関係があったわけです。
食べても美味いです。
懐かしい味にも感じます。

 

江戸時代にも、いろいろと持ち運びしやすいように変化した物もあります。
武士の世にあって、戦乱から太平の世になれば、武器は不要のものに変化するモノです。
でも、武士としての気構えは、必要です。
大小の刀は、主家を持つ者としては当然の井出たちです。

 

旅をするなら、槍も欲しい所です。
ただ、旅をする道中に、槍はかさ張ります。
そうなると、折りたためる道中槍や手槍が考案されます。
長い槍も、二つに折りたためて、まるで長い刀のような形なら、携帯出来ます。

 

槍と言えば、先日、一龍斎貞山(いちりゅうさい ていざん)の講談『赤穂義士銘々伝~槍の前原』を見ました。
最近、講談が人気と聞きます。
話芸が盛んなのは、いいことです。

 

話の内容と言えば、下記のようなものです。
近江国坂田郡前原村に住んでいた漁師伊平の息子で伊助が、湖水で魚を銛(もり)で突いて漁をしている内に、槍術の極意を会得した。
この槍の腕前があるので、何とか世に出て、侍になりたい志を立て、江戸にやって来て築地鉄砲洲軽子橋の浅野家に、水汲み中間として住み込むようになります。

 

元禄八年のある日、浅野家家臣で、百五十石の高木良助が、松平左京太夫様まで、お使いに行く道中、槍持ちがいなかったので、臨時雇いとして伊助がその供をすることになった。
この高木氏は馬術に心得が薄く、無様な姿に道行く回りの者まで、笑う有様です。
あまり不味いと、お供として耐えがたくに伊助は、槍持ちのお役を抜けだして、しらふではできないと、途中で抜け出し居酒屋で酒を引っ掛ける様です。

 

伊助不在のまま、高木氏が青山久保町にさしかかった時に、馬の蹄(ひづめ)が水たまりに入り泥水が、青山六道の辻町道場主、大島運平の紋服にかかってしまった。
あまりのことに、高木氏もどうすることもなく、「これは、これは」と言うばかりで、詫びの一言も言わずにいたので、「無礼者」と、大島に斬られてしまい、高木氏は落馬して一命を失う。

 

大島が言うには、浅野家には腕前優れた人物が多くいるであろうから、ここへ呼べ供の中間に言い付け茶屋で待っている。
酔って後にやって来た伊助が追いて来て、高木氏の仇を討つと事になる。
それを聞いた浅野内匠頭の目通りを許されて、五十石の士分に取り立てられることになり、後日の吉良家打ち入りに参加するという話です。

 

講談としては面白いです。
俗に、赤穂義士銘々伝と言われる講談のことですね。
浪曲でも同じ赤穂義士銘々伝があります。

 

でも、この講談、史実でなく嘘なんです。
どこからかと言えば最初からすべてです。

 

まず、前原伊助宗房は、近江の漁師の出自ではありません。
寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれるとありますので、生まれた時から武士の子供です。

 

石高も、10石3人扶持と微禄のお目見え以下ですね。
金奉行など、算術財政にも長けていたと思えます。
後に、吉良家の動向を探るため、本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」として活躍します。

 

ですから、槍の前原より、算盤の前原だったと思われます。
吉良家打ち入りの当日は、裏門隊に属していますが、突入隊でなく、屋外警備隊の為、武器は斧・刀と後方支援部隊であったと思われます。
槍の前原なら、手槍か鍵槍は、持参しているはずですね。

 

以上、この講談は、すべてが嘘情報です。
それはそれとして、講談としてはよく出来ています。
これを聞いて、本当だと言う方はいないと思われますけどね。
「講釈師見て来たような嘘をいい」です。

 

赤穂義士銘々伝には、嘘だらけですよ。
代表格なら『赤埴源蔵、徳利の別れ』が挙げられます。
それでも、面白いから許せます。

 

赤穂浪士」や「忠臣蔵」は、大昔の話と言う莫れ、そのエッセンスは、今でも使われています。
AKB48乃木坂46は、赤穂浪士のパクリです。

 

赤穂47人と言えば、「AKO47」です。
講談浪曲の『南部坂雪の別れ』と言えば、南部坂が乃木坂に変わっただけです。
47とすれば、何か印象が変わるので、あえて「47」を使わずに、「48」や「46」を使っていますね。

 

それが証拠に、AKB48は、もともと48人ではありません。
乃木坂46も、もともと46人ではありません。
数字の妙なんです。

 

要するに、個々の芸ではなく、集団芸度あると言う点、「赤穂浪士」や「忠臣蔵」でも同じです。
その上で、銘々伝があるわけです。
秋元プロデュースの妙です。
まさに、温故知新でしょうね。

 

日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。

 

総索引https://kantoshoue.hatenablog.com/entry/35343705