''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

大石内蔵助の苦悩とは?

今年もあとわずか、心残りはないかと文章を綴ってきました。
あります。
今月のサブテーマ「赤穂浪士」「忠臣蔵」です。
この最後の〆が残っています。
今日は面白くありませんよ。

 

大石内蔵助は、当初から吉良家の討入りなど全く考えていなかったと思います。
あくまでも、浅野内匠頭の弟で養子の浅野大学に浅野家の再興を考えていたようです。
現実としてありえる話です。これが現実路線ですね。現実主義者ですよ。
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http://www.ohishi-jinja.jp/ ←大石神社のホームページ (写真も大石神社所蔵)

 

大石内蔵助は、「昼行灯(ひるあんどん)」などと言われるのんびりとしたところがあります。しかし、剣術は奥村無我から東雲流の免許を得ているという一面もあります。

 

学問も京都に留学して伊藤仁斎儒学を学びます。講義中に居眠りもするというところは朗らかな感じです。しかし、仁斎はこの姿を見て「大器」を見たとも言われます。

 

仏の禅にも赤穂の良雪和尚から学んだと言われます。絵こころもあったようです。当時の教養人としての顔もあります。皆さんのイメージの大石とは違います。(『赤穂浪士 討入り以後』菊村紀彦 人物往来社 参照)

 

もともと松の廊下での刃傷は、武家の法では「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」です。

 

鎌倉幕府依頼の公然の法です。武家にあっては何があろうと意味なく喧嘩はしない。喧嘩をするにはそれなりの理由があるからです。

 

江戸城の殿中で刀を抜けば、お家は取り潰しこれも知らぬものがいない公然の法です。武士は江戸城では「小さ刀」という刀を形だけ指しています。分かりやすく脇差です。大刀は持ち込めません。預けます。

 

もちろん刀ですから、人もあやめる事も出来ます。武士の魂ですからね。丸腰じゃ寂しいですね。

 

この「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」に反します。浅野は即日切腹、吉良はお構いなしでは不公平です。吉良は高家筆頭、浅野は外様大名です。この違いもあるのかもしれませんが、法は法です。
両家の取り潰しが正統な判断です。

 

幕府に非があります。このため、浅野再興はありえる話です。吉良は隠居、浅野は1万石か5千石なら話が付きます。最後の最後まで、これに賭けたんです。あえなく惨敗です。
浅野大学にも処分が下ります。変更はありません。

 

では、同士をまとめるために武士としての筋を通す必要があります。
吉良家への討入りです。
大石の本当の敵は吉良上野介の首ではありません。
多くの方は、吉良が「敵」であるように、勧善懲悪を付けます。

 

大石の敵は、幕府、つまり「将軍」です。

 

幕府に「物言い」です。平たく言えば「テロ」です。
これには幕府も責任を感じたようです。

 

赤穂義士には、世間もすべてに亘って同情的です。幕府もこれには無視できません。
旗本、大名家からも賛同、同情の声が強いです。無視続けることが出来ません。

 

それ以上に将軍綱吉が大絶賛です。
「あんたが張本人」です。でも、武士道としては、これ以上の話はありません。人として武士として社会が混迷の時代ですから当然です。

 

林大学頭信篤も同情的です。
林大学頭(だいがくのかみ)は、今で言う文部大臣で東大の学長に相当する重要人物です。
後の儒学者の室鳩巣(むろきゅうそう)も同情的です。
この人が「義士」という言葉を使い始めて人物らしいです。
ですから、赤穂義士は英雄扱いでこのまま、助命される方向性がありました。

 

しかし、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、武士道として義士なら、武士として切腹があってしかりと説を唱えます。それは法を守る立場から「テロ」を黙認できなかったからですね。
荻生徂徠は、当時の最高権力者の柳沢吉保に仕えていました。

 

荻生徂徠は苦労人です。
浪人していましたから、食べる物がなく、豆腐屋のおからを食べて生きていました。それも豆腐屋の誠意です。

 

あるとき、この豆腐屋が火事になります。豆腐屋は行くところも、お金もなく途方にくれます。しかし、立派な武士が主人からと称して、お見舞金の大金が届けます。もらう宛先に検討が付きません。

 

そうです。浪人の荻生徂徠が仕官して、この火事を知り、いの一番に使者を立てたのです。大変な人情家です。でもこの話は浪曲講談の話で真偽は分かりませんが、苦労人でおからで暮らしていたのは真実らしいです。

 

人の人情の分かる人物です。でも、法を守る立場にあっては、赤穂義士の行為は、「正」とすることは出来ません。

 

ですから、精一杯武士の誇りとしての切腹として「死」を与えることによって武士としての賛辞と誇りを送ります。
死して名を残せたのです。

 

大石内蔵助は、初めから死を決意して討入りです。本来なら、討入り後、泉岳寺で全員切腹の予定です。しかし、大石には幕府に「物申す」必要があります。

 

そのため、大目付に届け出て幕府の身を任せます。大石の作戦です。全員に死を覚悟、納得させています。絶対に助かることはないと確信しています。

 

作戦は成功です。義士切腹の後に、浅野大学がささやかながら500石の知行を幕府から与えられます。お家は再興です。吉良家も断絶です。これが大石の彼岸です。あの時、泉岳寺で全員切腹していたのではこれはありえません。社会に問題を提議したのが最大の策でした。

 

今日までこのように「赤穂浪士」として名をとどめたのも命賭けての策です。
自分の天命を悟ったからでしょう。自分は討入りもしたくなかったし、吉良はどちらでも良かったと思います。

 

もう一人「赤穂浪士」「忠臣蔵」を成功された人物がいます。側用人柳沢吉保です。老中より上席の扱いです。最高責任者です。この人物が討入りを成功に導いた人物とも考えられます。

 

吉良邸は、事件当時は数奇屋橋に屋敷がありましたが、事件後本所に屋敷換えです。本所は江戸城内とは違います。数寄屋橋なら広い意味で江戸城内と言えます。絶対に討入りは成功しません。幾つもの入り口に武士が控えて警護しています。

 

本所は江戸の外れです。討入りしやすいです。世間が浅野に同情的で、吉良に厳しいとの評判を、将軍綱吉が気にしている感じたからです。正確には大奥が世間話を気にしていますからね。この影響でしょう。

 

本当に討入りが成功するかは不明でしたが、動きは捉えていたと思います。全員江戸に集まっていますし、討入りの用意していたのは確かですからね。

 

吉保の狙いは、世間の幕府への批判回避と社会不満へのガス抜きです。
それにこの討入りに、上杉家が関われば15万石も幕府の手に入ります。
上杉の殿様は吉良の実子です。吉良の養子は上杉の実子です。関わるように仕向けます。

 

政治の安定のためなら何でもやるのが権力者です。吉保は160石程の家の出です。今や15万石です。綱吉の考えていることを先に先に気遣いの出来た人物だったと思います。
主人が、今何を求めているのか、考える能力に長けていたことになります。

 

上杉にも色部又四郎という有能な江戸家老がおりました。このため、この策にはハマらなかったようです。

 

太平の世にあって、時同じくして有能な者がおりました。
大石内蔵助柳沢吉保、色部又四郎が居ての「忠臣蔵」です。
偶然はありません。必然です。

 

天命を内蔵助は聞いたのでしょう。
そこには、仏の禅の考え方が大きく関係しているように思います。
天命を聞いて、瞬時に「腹がくくれた」と思います。
後は、その方向に向かって歩くだけですからね。

 

凄い人が居たものです。
自分にこのような天命は来ませんが、来た時どうするでしょう。
そのためにも修行は必要です。
今を精一杯生きなければなりません。

 

自分ではどうにもならないからです。
自分は生かされているからです。
自分では勝手に死を選ぶことは出来ません。

 

不景気な情勢ですが、天命を聞くことも必要です。
自分でやれることは精一杯する。その上で運を天にゆだることも必要です。
じたばたすることなく、時が過ぎるのを静かに待つのも得策です。

 

あと少しで今年も暮れます。
良いことも悪いこともあります。
心穏やかにのこり少ない今年を穏やかに過ごしましょう。

 

来年は良い事があることをささやかに祈って過ごします。
「感謝の気持ち」は、邪魔にはなりません。いつも携帯電話と一緒に持ち歩いて下さい。

 

最後まで長々お付き合い下さいまして、ありがとさんです。