''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

除夜の鐘も準備できています。

早いもので、あと数日で今年も過ぎて行きます。
行く年来る年、万感の思いもありますね。

「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」
芭蕉の『奥の細道』の冒頭を思い出します。(元禄2年3月27日 旧暦 )
月日は、「光陰矢の如し」の「月」(陰)と「太陽」(光)の関係でもありますね。(仏法の「妙」と「法」でもあります)
時間はとどまることなく、水の調べの如く、流れます。

子供の頃を思い出します。
お正月というと特別な時間でした。
晦日から始まって、この日は特別です。

夜遅くまで起きていもいい特別の日です。
レコード大賞に続いて、紅白という流れです。

そこには家族団欒がありました。
これが普通と感じていました。
そして、眠い眼(まなこ)を擦りながら、除夜の鐘が聞こえます。

実家はお寺が近くにありました。
当然、その鐘の音はよく聞こえます。
そして、正月を迎えます。

何気ない風景です。
それがささやかな幸せであると実感もありました。
除夜の鐘に感じる思いも深いです。

今の住まいにも近くに有名な寺院が、除夜の鐘を鳴らします。
今年も静かに暮れることを念じます。

私事ながら、今日が仕事納めになります。
明日は掃除と決まっています。
いろいろな雑事に追われてしまいそうです。

今月のサブタイトルは「赤穂浪士」です。
なかなか引っ張りますね。
除夜の鐘と来れば、その鐘を突く棒ですね。

撞木(しゅもく)と言うそうです。
もともとは、小さい鐘を鳴らす「T」字型の棒です。
木槌みたいなものですね。

京都伏見に撞木町というところがあります。
伏見の郵便局のあたりですね。
この辺は、地名がユニークです。

桃山水野左近西町、大亀谷金森出雲町、桃山福島太夫北町、桃山井伊掃部西町って言うように戦国武将の名前がそのまま町名です。
そんな伏見城下にあります。

撞木町は、江戸時代遊郭でした。
島原や祇園よりは少し格式は落ちます。
その分、費用もリーズナブルですね。

ここに、大石内蔵助殿がよくおいででした。
馴染みの店があったようです。
山科の自宅から、稲荷の山を越えて、墨染のこの地においでです。
「浮さま」と呼ばれていたようですね。

この地に碑文があります。
イメージ 1

大正に時代に作られた石碑ですね。
よく見ると、赤穂義士大石内蔵助の名前がはっきり見えます。
イメージ 2


ここで遊ばれてようですね。
当時ここは伏見奉行支配です。
遠国奉行の中では、伏見奉行は、唯一大名が就任することがあった役職である。

時の伏見奉行は、同じく播州林田藩主、建部内匠頭政宇(まさいえ)です。(こちらも内匠頭です。縁がありますね)
実は、この方、吉良家の縁者です。

気を使って、山科の大石を見張っています。
江戸に連絡をしていたようです。
吉良家や上杉家からの依頼があったのか、建部家が気をきせたのかは不明です。

きっと悪所通いの内蔵助を、「腑抜けの大石」とご報告したことでしょうね。
「あだ討ちって、興味ないし」
女と酒にうつつを抜かす、人として快楽に浸ります。
これじゃ、仇討ちは無理です。
それが、大石の作戦だったのか、本当に遊びたかったのか、これまた不明です。
この頃、まだお家再興の動きも同時にしています。

出来ることなら、仇討ちでなく、弟の大学長広を持って、浅野家を再興したいと思っていたはずです。
無益な殺生はしたくないです。
平穏無事が大切です。

お上の採決は、お家再興は「無理」の定です。
ではと、吉良家に討ち入り、主君のあだを晴らします。

ここからが始まりですね。
その苦悩の日々を、この撞木町の廓(くるわ)で過ごされました。
心の迷いも、撞木でその鐘を鳴らします。

先人の偉業に、今一度考えさせられます。

この赤穂事件で徳をした人はいません。
無益な殺生と言えます。
やりたくはなかった。でも、やるが武士の筋道です。
あの世の花道を、46人ご一同が進まれます。

今日あるは、偶然にあらず、必然です。
今あることは、幸せです。
ありがたいと感謝の気持ちを添えて、日々生活して行きます。

今日も平穏無事に過ごせますように、手を合わせるだけです。

最後まで、のらりくらりと長い話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。