''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

逸翁美術館 「絵巻」大江山酒呑童子・芦引絵の世界より、不思議な世界に。

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朝から時折激しい雨の降る一日でした。
昼過ぎに、大阪十三で待ち合わせです。

同行カメラマンが、逸翁美術館の招待状を、極秘裏に入手と聞き、それではと、初日に拝観です。
今日から、10月23日までが前期で、10月25日から12月4日までが、後期の予定です。
雨の初日ということで、人ではパラパラでした。

テーマが、少し難しい気もします。
お茶のお道具なら、年配の女性が多いですね。
それに絵画も、逸翁の所蔵品となると、どれもこれも目利きの逸品です。

金銭の多寡だけでないのか、逸翁の凄さです。
本当の意味での数寄者であったと思います。

毎回の展示の最後に、茶室の室礼があります。
今回は、昭和24年11月17日の山中会の再現です。

床は、俵屋宗達筆の「飛鴨図」が、季節感を出しています。
もちろん、茶碗も斗々屋 歌銘「翔鴨」です。
お軸と茶碗が、ぴったりです。

きっと茶懐石には、鴨が出たことでしょうね。
禁猟の解禁の時期です。
本州で鴨猟が許されるのは、11月15日から翌年2月15日までの3ケ月間と聞きます。

この期間なら、撃ち落とされたばかりの、新鮮な鴨を食することが可能なはずですね。
しかし、打ち落としてから、10から14日しないと肉の旨味が熟成することが出来ないとも聞きます。

この茶懐石には、新鮮な方の鴨が食されてと言う事ですよね。
天皇家も、鴨猟専用の緒狩場を所有されています。
一昔前は、各国の大使を天皇陛下が、ご招待されいたようですね。

新鮮な鴨と熟した鴨、はてしてどちらが美味いのか、私の住まいする京都伏見からなら、滋賀の長浜辺りにでも行って味をないと、分かりませんね。
長浜は、鴨鍋で有名ですね。

長浜と言えば、ご存知、豊臣秀吉公が造られた町です。
もともと今浜と呼ばれていた所です。

秀吉公が、家臣第二番目の城持ち大名なった時に、拝領した領地です。
その為、主君信長の名前の一文字「長」をとって、長浜としたのが、町の由来です。
なかなかの気遣いです。

話がそれました。
今日は、酒呑童子の話でしたね。
しかし、酒呑童子の話も二つありようです。
一つは、大江山、もう一つは、近江の伊吹山です。
これなら、同じ近江の長浜とも縁が繋がります。

どちらにして、話はどちらも似ています。
共通の主人公は、源頼光です。
源氏の長者ですね。
ここに源氏の系統を見る事が出来ます。

それも、帝よりの勅命です。
そのシーンも絵巻に登場です。

しかし、大江山に出兵した記録はないということです。
もちろん、伊吹山にもです。
室町時代お伽草紙に書かれたことにより、これを後世の人が、いいように書き加えたと思われます。

何の為にか、それは源の武家政治の正統性を付けるためです。
世に広めるためです。
特に江戸時代に書かれていますね。

法華経の力も借ります。
聖徳太子も龍樹菩薩も「一天四海皆帰妙法」、その上に弘法大師の名も出ますね。

その上、住吉、日吉、八幡、熊野の神々も、源頼光に手を貸します。
帝の勅命と、仏様も神々の力でなした偉業です。
それだけ選ばれた源氏の政治が、徳川の世であると後世にも伝える為のプロパガンダであったようです。

大江と言えば、「大江山 いく野の道も 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」の和歌を口ずさみます。
作者は、和泉式部の娘、小式部内侍(こしきぶのないし)の百人一首です。
高名な和泉式部の娘だから、小式部です。

米朝の息子だから、二代目小米朝です。(初代は、「月亭可朝」)
それと同じ理由でしょうかね。
♪嘆きボイン(1969年 80万枚の大ヒット)、リアルタイムで、子供の頃聞いた記憶があります。

師匠の古典芸が、弟子には承継されなかたようですね。
それにしても、オチの物悲しくエレジー調の、「これがほんまのチチ帰るやおまへんか~」は良く出来ていますよね。
政治の感(菅)はダメでも、笑いの感(寛)はいいですね。
ボインは今では、昭和の死後ですね。

[明治期に小米朝という記載があるという説もありますが、ただ同名であったと思われます。米朝の弟子だから小米朝としては、初代、二代しかいない説を採用しています。現在空席]

芸も形のない物です。
それを承継するのも難しいです。

しかし、大江山酒呑童子の話も、史実と言えなくても、証拠の品があります。
国宝「童子切安綱」です。
この時の頼光が、酒呑童子を退治した太刀です。
天下五剣の一つです。

安綱の太刀は、幾振が見ています。
すばらいものでした。
その最高傑作が、この国宝「童子切安綱」と言われています。

この太刀の運命も数奇です。
室町将軍家から、秀吉、家康、秀忠、越前松平、その後改易、作州松平家に伝わります。

その後、太平洋戦争の混乱期に、金沢の刀剣商石黒久呂氏が、当時の刀剣会の太閤・飛行機王中島喜代一氏の買ってもらうべく買い出したが、敗戦すぐには、到底買えるものではなかった。
それを、愛刀家・玉利三之助氏が、当時10万円という途轍もない大金で買ったと言います。(『新・日本名刀100選』佐藤寒山著 参照)

しかし、敗戦の為、日本中の刀が、GHQに処分される可能性が強かったです。
現実に接収されて、持ち主に帰っていない「赤羽刀」と呼ばれる刀が現在もあります。
家の家宝の刀もあったはずです。

この国宝「童子切安綱」も同じ運命であったかもしれません。
もちろん、この絵巻も、仇討ちという意味では、同じ運命であったかも知れません。
こうして、今日私の目に触れることもなかったかも知れません。

愛刀家の玉利三之助氏の功績は、甚だ「大」です。
世に出ない歴史の功労者だと思いますね。
世に知ってもらいたいですね。

もちろん、逸翁の茶器や美術品を愛する数寄者の心が凄いです。
金に物言わせて集めたものばかりでないところが、数寄者の道です。

いい展示でした。
見終わった頃には、くったりです。
鴨を食ったり、人を食ったりと、てんてこ舞いのブログの記事となりました。
この後、昼餉を食ったりしに、十三まで戻ります。

この逸翁様とも、不思議な縁で繋がります。
一方的な縁ですがね。
それもありがたいです。

私はありがたい仏縁を頂いています。
ありがたいと感謝です。
同行カメラマンにも感謝です。

いい一日の時間を頂けました。
ありがとさんです。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、好き放題な好き者の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。