朝からいいお天気です。
すでに朝から通りでは、藤森祭りの神輿巡行の武者行列、法螺貝の音や太鼓の音が、にぎやかに聞こえます。
少し暑い日となりました。
いろいろな人々が、参加されています。
すでに朝から通りでは、藤森祭りの神輿巡行の武者行列、法螺貝の音や太鼓の音が、にぎやかに聞こえます。
少し暑い日となりました。
いろいろな人々が、参加されています。
甲冑を着用した勇ましいお姿です。
腰には、太刀を刷いています。
足元は、草鞋です。
腰には、太刀を刷いています。
足元は、草鞋です。
5月5日は、子供の日、もともとは端午の節句で、男の子の節句です。
藤森神社は、この端午の節句の発祥地です。
こうした甲冑姿の武者姿にも関係があります。
端午の節句は、菖蒲の花で、その厄払いを意味しています。
それが、菖蒲が勝負の意味になり、勝利の神様となった経緯は、昨日も書きました。
藤森神社は、この端午の節句の発祥地です。
こうした甲冑姿の武者姿にも関係があります。
端午の節句は、菖蒲の花で、その厄払いを意味しています。
それが、菖蒲が勝負の意味になり、勝利の神様となった経緯は、昨日も書きました。
駈馬の馬も、この藤森神社の象徴です。
左馬という事は、ゲンのいい言葉です。
武運長久を念じた言葉です。
左馬という事は、ゲンのいい言葉です。
武運長久を念じた言葉です。
左馬と言えば、「うま」の逆さの「まう」に通じて、客が舞う、金が舞うとゲンのいい言葉とされています。
しかし、本来は、安全に帰ってくることを願った武運長久を意味します。
しかし、本来は、安全に帰ってくることを願った武運長久を意味します。
戦場で、右馬となれば、負けを意味します。
どんな時であっても、馬に乗るのは、左からです。
それを右から乗るのは、生死をかけた場合だけです。
死に物狂いに、敗戦した時だけです。
どんな時であっても、馬に乗るのは、左からです。
それを右から乗るのは、生死をかけた場合だけです。
死に物狂いに、敗戦した時だけです。
武者は、甲冑姿で太刀を左に刷いています。
右から乗ること自体無理があります。
常に左から馬に乗るゆとりがないと、勝てません。
何事もゆとりがない戦は、無益です。
右から乗ること自体無理があります。
常に左から馬に乗るゆとりがないと、勝てません。
何事もゆとりがない戦は、無益です。
粽(ちまき)は高いので、柏餅が子どもの頃からの定番です。
♪柱の傷はおととしの 5月5日の背比べ~
歌の中にも、「ちまき食べ食べ」と歌詞にもありますからね。
京都でちまきと言えば、祇園祭のちまきをイメージしますね。
♪柱の傷はおととしの 5月5日の背比べ~
歌の中にも、「ちまき食べ食べ」と歌詞にもありますからね。
京都でちまきと言えば、祇園祭のちまきをイメージしますね。
そう言えば、5月5日は、「蓮」の日です。
六祭日の一つです。(如是我聞)
月と日が同じ奇数の日です。
六祭日の一つです。(如是我聞)
月と日が同じ奇数の日です。
台座を横に除けて、半分の席をお空けになられます。
その場所に、お釈迦様がお座りになります。
その場所に、お釈迦様がお座りになります。
ちょうど、写真の柏餅みたいに、台座に2人の仏様が鎮座されます。
妙華と法華の二つのお姿です。
この搭は、一つでなく、ツインタワーなんですね。
妙華の多宝仏搭と、法華の多宝仏搭のツインタワーです。
二つで一つであると言えます。
妙華と法華の二つのお姿です。
この搭は、一つでなく、ツインタワーなんですね。
妙華の多宝仏搭と、法華の多宝仏搭のツインタワーです。
二つで一つであると言えます。
いろいろな罪を犯して、人は生きます。
その輪廻の過程で、いろんな縁と関係します。
いい縁もあれば、悪い縁もあります。
この世の中でなすべき修行は、悪い縁を断ち、良い縁を結ぶことだと考えます。
その輪廻の過程で、いろんな縁と関係します。
いい縁もあれば、悪い縁もあります。
この世の中でなすべき修行は、悪い縁を断ち、良い縁を結ぶことだと考えます。
その為には、悪い行いをせずに、いい行いをするという事に起因しています。
何事、その縁起に繋がっています。
つまり、空(くう)は、縁起とも言えます。
何事、その縁起に繋がっています。
つまり、空(くう)は、縁起とも言えます。
今あるのも、この縁に大きく関わっています。
過去世の縁が、現世の縁に繋がっています。
過去世の縁が、現世の縁に繋がっています。
より良い仏縁に導かれて、懺悔して悔い改めるそんな日が「六祭日」であるとも聞きます。(如是我聞)
日々の暮らしの中で、ささやかな幸せを求める。
日々の暮らしの中で、ささやかな幸せを求める。
それと同時に、自分の罪を懺悔しないといけないですね。
大きな罪は犯さなくても、生きていること自体、罪でしょうね。
生きるとは、罪を犯すことの連続です。
生きるために、他のモノを食して犠牲の中に、存在しています。
大きな罪は犯さなくても、生きていること自体、罪でしょうね。
生きるとは、罪を犯すことの連続です。
生きるために、他のモノを食して犠牲の中に、存在しています。
罪深い業(ごう)があるのも、事実です。
それでも、欲を必要以上に持たずに、自分の分にあった暮らしの中、ささやかな幸せを見つけることによって、それ以上の罪を犯さないことをしたいものです。
今あること、今生かされていることを感謝する暮らしは、必要だと思います。
それでも、欲を必要以上に持たずに、自分の分にあった暮らしの中、ささやかな幸せを見つけることによって、それ以上の罪を犯さないことをしたいものです。
今あること、今生かされていることを感謝する暮らしは、必要だと思います。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事に暮らしたいと念じます。
最後まで、蓮した柏餅を食う(空)話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。