''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

赤紫の紫陽花を見て思う より。

梅雨の合間と言うのでしょうか?
昨日は天気が、良かったです。

久しぶりのお日様に、気温も一気に夏を感じます。
昨晩は、少し考えることもあって、目がさえて、眠ったのは4時過ぎだったと記憶しています。
いろいろ迷えることもあります。
不安を打ち消すかの心の整理や自問自答の時間に、眠れなかったです。

それでも、うとうとと明け方不思議な夢を立て続けに見た記憶です。
よく夢を見ます。
日に5本ほど見ることもあります。

人は皆夢を見ると思いますが、大抵朝になるとその夢の記憶がないだけです。
私は、意外に夢記憶しています。

中には、続きが見たいと気になることも、多いですね。
夢の中で、ここに来たことがあると思うことも多いです。
なにやら、夢の中が現実で、この現実世界と思っているのが、夢かもしれないと思うことも多いです。
あまり、そんなことを考えると、軽いノイローゼになるような、うすら怖い感覚になります。

「うすら」と言えば、「うすらぼんやり」です。
先日、BOOK-offで105円で購入した『禅的生活』(玄侑宗久著 ちくま新書)の中に、「うすらぼんやり」と言うことが、書き示されています。
テレビのコメンテターとしても、2001年「中陰の花」で、125回芥川賞受賞作家としても、ご活躍の作家さんです。

物事を「うすらぼんやり」眺めると、その状況の中、体がリラックスすると言われる。
その上で、いわゆる瞑想から離れた「悟り」の世界は、意外なことに「うすらぼんやり」という入り口から入るようなものだと、語られています。
瞑想している場合の自分は、「今ここ」に居るのだが、「考える」とは「今ここ」からいなくなることなのであると、記されています。

禅の瞑想とは、明らかに「今ここ」でのリアル体験なのであるとも、書かれています。
その上で、「うすらぼんやり」とは言葉で表せない「不立文字」を表現したものと言われています。

瞑想だとか、そんな難しいことは分からないです。
でも、寝られないほどの不安を感じ、あーでもない、こーでもないと、思案しているわけです。
瞑想ではないけれど、結論が出ない堂々巡りです。
そんな時間は、早く過ぎます。

しかし、深く悩まないで、「うすらぼんやり」した状況も大切だと言うことは理解でます。
物事の曖昧なところに、心の拠り所もありますし、心の逃げ場もあります。
今考えても、結論の出ないことも多いです。
時間が解決してくれることもあります。

昨日も、買い物帰り、遠回りしてみました。
わざわざ疎水沿いを歩き、その疎水の水の流れを感じる。
梅雨時ですから、水量も満々としています。
そんな疎水沿いには、あちこち、花が植えられています。
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この時期は紫陽花が綺麗に咲いています。
先日の紫陽花は、青紫でしたが、赤紫の紫陽花です。
凛として咲いています。
雨が降れば、これ幸いと、花や葉っぱに潤いを満たします。

しばし、心バッテリーを充電する作業をしました。
やはり、花はいいですね。
花を見て、きれいと感じるこころのゆとりは大切です。

淀んだ心にも、一風のそよ風が吹いた気がしてます。
この紫陽花も、私は「うすらぼんやり」して見ているのでしょうね。
それでリラックスできるなら、それは花の徳です。

ありがたいことに、私は仏縁を頂けています。
ありがたいと感謝しています。

日々の暮らしの中、ささやかな幸せを見つけています。
こんなところにも、幸せは咲いています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、心の七変化した話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。