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鬼平一族の始祖
長谷川紀伊守正長
駿河国小川に住し、後に同国田中に移り住む。
今川義元に仕え、没落の後に、家康に仕える。
通称は、藤九郎。
おもに長谷川雅敏作成の系図考によると
信香院開基の長谷川正長は、1535(天文4年)に小川で生まれた。 父は元長、母は不詳だが今川家臣の相当な身分の女性らしい。 長谷川家は、正長の三代前頃に小川に来て、財力を蓄えて立小路に館(小川城)を構え豪族となり、 駿河国守の今川氏の家臣に。正長は今川義元に仕えた。 今川と武田の争いの中で、田中城を守備していた時に、形勢を鋭く観察して駿河の地を去った。
その後、1570年(永禄12・元亀1年)に遠江・三河に勢力をもっていた徳川家康を頼って家臣になった。 その二年後、三方原の戦いに参加、武田軍の勇将の陣に突入して弟や一族の人たちとともに戦死した。 明治末発行の『日本戦史』(陸軍参謀部編集)に詳しい。正長は三十七歳だった。
正長には九歳の正成を頭に宣次・正吉の三子があった。 家康は戦死した家臣の遺児に手厚い扱いをした。 まず遺児たちに当面の生きる道を講じた。 長男は十三歳で家康の近習となり、高禄の旗本に昇進した。 その子孫に「鬼平犯科帳」の平蔵も。なお現在の正長の墓碑は九代目の正満が1802年に建てた。
長谷山信香院とは
1517年(永正14年)秋の暴風雨で大破した。 それを通山芳釈という和尚が当時の小川城主長谷川氏の支援で復旧整備、 長谷山信香院と改称して開山となるとともに長谷川正長を開基としている。
※ 正長の墓所は、東京都杉並区和田 立法寺に別家の一つ長谷川平兵衛正陽の場所にある。
石碑には、「元亀三壬申十二月二二日 忠樑院殿前紀州吏儀叟了閑日終大居士」しある。(『別冊 歴史読本 実録『鬼平犯科帳』のすべて』より)
長男 正成
次男 宣次
三男 正吉
正長の弟 藤九郎英一?と総次郎