''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

水まんじゅうに、季節の易(かわ)るを見る より。

今日は、気温が低めで、9月下旬近いような気温であったと聞きます。
雨が、一様に秋に誘った感じがします。
暑い最中の寝苦しさが、嘘のようですね。

夏に食べた水まんじゅうの写真を、携帯のフォルダーで見つけました。
この頃は、まだまだ暑さを楽しむ余裕があったはずです。
餡の入った水まんじゅうが、熱いお茶で頂けました。
イメージ 1

もちろん、私はいつも暑いお茶を頂きます。
数寄者の茶人のように、喫すると行きたいものです。
慣れた人の所作は、なかなか恰好がいいです。
私には、湯呑のお茶で、十分です。

水まんじゅうを見て、季節感を感じます。
秋口には、少し違和感を覚えます。
菓子も、季節感が必要ですね。

昨日の趙陶斎の一行書「夕梵雨中燈」は、「白雲抱幽石」の一行書と対になるものであると、島谷弘幸氏の解説があったのを思い出しました。
対の意味は、分かりませんが、一対の一行書になっていたと言うのは、意味が深い事です。

このブログでも、禅語「白雲抱幽石」(白雲幽石を抱く)の記事を書いたことがあります。
寒山拾得」として有名な寒山の作った詩篇を集めた『寒山詩』に記されている一節と聞きます。

重巌(ちょうがん) に我れト居(ぼっきょ)す
鳥道(ちょうどう)人迹(じんせき)を絶す
庭際何んの有る所ぞ
白雲幽石を抱く
茲に住むこと凡そ幾年
屡(しばしば)春冬の易(かわ)るを見る
語を寄す鐘鼎(しょうてい)の家
虚名定まらず益無し

意訳の意味
重畳たる岩山に我が居を定め、ここには、鳥だけがわずかに通うだけで、人跡未到の剣山である。
庭先には何があるかと言えば、「いつも白雲が幽石を抱いているだけである」、私がここに住むようになって何年になるのかはっきりと分からないが、季節の移り変わりはしばしば見ている。
ここでの生活は物質的に貧しいものであるが、精神的には豊かで自由で楽しいものである。
その体験から、世の高貴栄華を誇る(鐘鼎(しょうてい)の家)に申し上げたい。
あなた方の富と名声とは、空虚で全く無益なものであるとね。
(『禅語の茶掛 一行物』羽賀幸四郎著 淡交社刊 一部抜粋一部参照)

何とも、世俗を離れた和尚の話のようですね。
一度でいいから、富と名声を得てから、こんなことが言ってみたいと思う凡夫のサガです。
それでも、我が家の暮らしは、意外とこれに同感出来ます。
我が家での生活は、物質的に豊かでないがが、精神的には豊かで自由で楽しいものであるとね。

茶人の求める一つの理想形であるんでしょうね。
でも、「小隠は山に隠れ、大隠は市に隠る」と言います。
世捨て人な.になる為に、山に隠れなくても、この大都会の真ん中でも、世捨て人にはなれますよ。

深いいい言葉だと思います。
世俗の塵挨は払いのけ、いえいえ、塵挨すら降りかかる所とてない暮らしの中では、そんな人塵挨すら、無縁の世界と、私なら嘘吹きますよ。
だって、「本来無一物」ですからね。
それを聞いて、「えーのー」と言わない下さいよ。

ズボンに小銭を入れるポケットすらないんですからね。
そもそもズボンがないと言えば、これまた法に触れそうです。
例えの話ですから、そんな趣味はありません。

それにして、禅者の暮らしには、憧れるモノがあります。
現実的ではありませんから余計に理想郷なんですね。
人と合わないなら、イライラ虫も少しは抑えられます。
ありがたいことです。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、まんじゅう怖いの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。