''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

吉本新喜劇の名脇役、「竜じい」故・井上竜夫さんを偲ぶ より。

今月5日に、74歳で亡くなった吉本新喜劇名脇役、「竜じい井上竜夫さんを偲ぶ井上竜夫さんの追悼番組「天国におじゃましまんにゃわ」が13日放送されていましたね。

若い頃から老け役で、私の子供の頃からじいさん役でした。
珍しい名脇役だと思います。
老人のぼけをコミカルに笑いに変える天性の才があったように思えます。

寝たふりをし「寝んな!」もしくは「寝とんのかい、おい!」とつっこまれ)「三途の川や〜」「きれいなお花畑やったなあ」と言うのが、私の好きなギャグです。
今回も、少しボケて、三途の川を渡ってしまったようにも思えます。
74歳とは、少し若過ぎますね。

三途の川の対岸では、昔の吉本新喜劇の仲間の岡八郎さんや花紀京さんが、向うで新喜劇されるのに待たされていますよ。
ドタバタの吉本新喜劇にあって、動の動きの笑いに対比して、静なる笑いがあったように思えます。

新喜劇の誰もが、前に出て来ますが、それでは笑いは作れませんよね。
誰かが何か面白い事を言ったりやったりして、それに対して舞台の全員がこけると言う集団芸が、吉本新喜劇の芸なんですよね。
その為にも、脇役が重要になります。
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吉本新喜劇のステッカーにも、いい位置に陣取っていますよね。
そう言えば、「竜じい」実父は、奈良薬師寺の僧侶であったとも聞きます。
その為、参拝に来られた老人の様子を、芸の参考にされたとも聞いたたことがあります。
深~い芸ですよ。

三途の川と言えば、大河ドラマ真田丸』の真田の家紋六文銭に関連します。
三途の川の渡し賃と言えば、六文銭と決まっています。
その三途の川の渡し賃を、家紋にしていると真田氏は、決死の覚悟で戦に臨んでいるんですよね。

三途の川に、舟の渡しが出来たのは、平安中期と聞きます。
あの世にも、産業革命があったのかもしれません。

それまで、生前の人の罪の深さによって、3つの川が用意されていたの所から、三途の川と言われると聞いたことがあります。
罪深い人は、深い川を渡らないといけませんし、罪軽い人は、浅瀬の川を渡って、対岸に向かいます。

この世の中に人として生きた以上は、罪のない方はいないです。
他の生き物の命を頂いて、生きているわけですからね。
動物の殺生はしなくても、食物は食べます。

生きる事が、ある意味すべて罪とも言えます。
人が歩けば、その下にある動植物を踏みつけます。
もっと言えば、それが知ると知らずと関係なく、罪を犯している訳です。
これは、人としての「業」ですから、仕方ないです。

人は何かの犠牲の中で、日常を暮らしている訳です。
ですから、何かの力で、生かして貰っていると感謝して暮す必要があると思います。
人により、信じるモノは違っても、何かの力が影響しているのは、明らかです。

私も、この世に生を受けた以上、そこに生きた証を残せるようにしないといけません。
いつも自問自答の日々ですよ。

笑いの力は、偉大です。
どんな時でも、笑えば元気が持てます。
笑われるのでなく、笑わすのは、なかなか至難です。

人情の機微を感じないと、人は笑えません。
人情の機微を感じないと、人は泣けません。

時に涙を注ぎ、時に笑いを注ぐのが、新喜劇と言う演芸ですよ。
吉本新喜劇の場合は、笑いがベースです。
ただ、松竹新喜劇は、藤山寛美流の激情型の泣き笑いが、そこにあったと思います。

その意味では、松竹新喜劇大阪松竹座11月「笑う門には福来たる ~女興行師 吉本せい~」は、この二大新喜劇の融合が、見られそうですね。
なかなか両社の協力があったものだと、不思議な感じがしています。

また一つ懐かしい笑いが、消えたような気がします。
巨星とは言えないまでも、中星が消えた寂しさはありますよ。
ご冥福をお祈りします。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、「では、失礼しまんにゃわ」の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。