嫁の部屋にあった古い本を見つけたら、読みたくなりました。
私的には、よくあることです。
図書館の館内でも、そうした場所を見つけることがよくあります。
〇〇学と呼ばれる分野は、独特の世界観が詰まっています。
先日、見つけたのが、大谷晃一著『大阪学』です。
その中で、第3章の「きつねうどん」の項に目が止まりました。
大阪にうどん屋は多いです。
粉モノ文化の大阪にあって、お好み焼き、たこ焼き、イカ焼き、同様に粉もんつまり、麺類もこの分野に入りますね。
その中でも、何故うどん屋が多いのかと言えば、高級料理さんでは敷居が高い、かといって一膳めし屋は柄が悪くて、女性が敬遠する、そこで、ちょうど塩梅がいいのが、うどん屋だったと言う事でしょう。
確かに、納得します。
今みたいに、オシャレなレストランもカフェもありませんし、女性の安心して入られる店が少なかった。
また、男が女性を連れて入れる適当な店がなかったと言う事でしょうね。
その意味では、江戸の町のそば屋と同じですね。
酒も呑めるし、簡単な食事もとれる。
はたまた、2階は男女の密会の場所にも成れたと言うのは、何かそうした需要があったのは、東西を問わずあるわけですね。
キーワードは、女性です。
当時から、女性目線が重要視されたと言う事でしょう。
男女で入れるちょっとオシャレで入り易いお店の形態が、うどん屋だっと言う事でしょう。
大阪で、うどんと言えば、いの一番に「きつねうどん」があがります。
ただ、一般的な関西人が一番好きなのは、素うどんですね。
関東では、かけうどんと言います。
うどんだけでから、素のうどんで、素うどんです。
落語の『時うどん』でも、食べているのは、素うどんですからね。
麺類が好きなのか、どうしてもトッピングの旨味でなく、麺の旨味と出汁の旨味を感じられるからでしょう。
関西でも、ランタイムなら、丼と小うどんのセットが人気です。
小うどんは、小さな素うどんです。
小うどんは、何か得した感じが強く感じます。
もちろん、小そばもありますよ。
意外に、関西でもそばは人気なんです。
関西と言えば、すぐにうどんと言う気がしますが、そうとも限りません。
もともと大阪のうどんは、柔らかいうどんが定番です。
それが、讃岐うどんブームから、「コシ」という言葉を使って、更に特別感を出そうとするのが、大阪人的な損得感ですね。
最初、うどんの本場、讃岐うどんがブームになって来た時、茹でが足りないと思ったていた方が多かったと聞きます。
うどんは、柔いモノと言うのが、常識にあって、多くの方が「コシ」を持める時代ではなかったですからね。
ただ、コシがあるのと、固いのとは別物です。
当時は、ここもよく理解されていなかったみたいです。
大阪人は、麺類が好きであって、麺文化が華やいでするわけではないんですね。
きつねうどんは、その最たるものだと思います。
甘くて濃いきつねの煮汁と、薄め位のうどんの麺の汁のコントラストが、受けたんでしょうね。
きつねうどんは、主食がうどんで、副菜がきつね(揚げ)だと言う感覚でしょうね。
時短で食事の旨味もあって、食事が完成できる点でしょう。
明治10年頃にはあったとも言われます。
親子丼(かしわと玉子)の組み合わせも、明治35年の第5回内国勧業博覧会の同時期にあったようです。
鶏と玉子で、「親子」、牛と玉子で、「他人」って、そのネーミングの妙にやられますね。
絶妙ですね。
京都と対すると、京都はきつねと言っても、いろいろあります。
甘きつねを欲するなら、「甘きつね」と言えばいいし、味の付いていないきつねは、「刻み」と言えば言い出す。
やはり、大阪人の好みに合うきつねうどんも、京都人には、揚げに馴染みがあるので、「甘きつね」と別項目がないと、認知してもらえなかったと言う事です。
薄い味の関西にあっても、京都の食文化は別物です。
きつねは、手間がかります。
何度も煮含めて、揚げさんに味が入るのに、手間が掛かります。
そう言うわけで、きつねうどんの需要とは別に、きつねうどんの人気が低調になっているのでしょう。
店側の都合もあります。
私も長い間、きつねうどんをお店で食べていません。
懐が温かったりすれば、天ぷらそばだったり、お酒を呑むなら、しっぽくそばだったり、刻みのそばだったり、うどんなら、肉うどんか、カレーうどんが定番です。
きつね一択では、ないですね。
むしろ、牛丼と小うどんだあったり、ハイカラうどんであったりすることが多いです。
メインで、うどんだけを食べる機会も少なくなったような気がします。
時代なんでしょうね。
でも、大阪学から、歴史の上での「きつねうどん」の位置づけも、雑学としても楽しめます。
損得関係が最優先の大阪にあって、ガメツイ自己主張の強い大阪にあって、他の地域の文化を受け入れない特殊な文化圏に、本当に〇〇学と言う分類の学問が成立するのかと言う疑念がありつつ、読み進んできました。
兵庫に20年、京都に28年、大阪に8年ほどの私が見た大阪学も、著者とは少し違う感覚で読んでで見ました。
あくまでも、個人の私見です。
ご容赦下さい。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。