''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

鉢植の花から見える世界。

車やバイクで行き来すると日常の四季を感じないことがあります。
夏は暑い。

今年は長雨の影響で、毎年の夏の様子と違うと感じます。
それでも、夏は暑いです。

朝夕の窓から入る風が、かすかに秋の予感すら感じます。
耳をそばだてると虫の音が聞こえることがあります。

この間まで、朝は蝉の声に起こされてしまいました。
最近、蝉の声がしません。
そう感じています。
耳ですら季節を敏感に感じ取ります。

日常の中に季節を感じることがあります。
食べ物はまさに四季の移ろいを旬で示します。

ふくろ詰めいっぱいの胡瓜が安かったのもこの間のことです。
地の胡瓜が売られています。
ハウスものでない胡瓜です。

曲がったものもいっぱい入っています。
胡瓜の酢の物に、たこやなまり節や入れて頂きました。
もろきゅうも大好きです。

もちろん、トマトと一緒にサラダも楽しめました。
夏本番といった胡瓜の数も3本が100円から、2本が100円にと目に見えて変化に気付きます。

夏も山場は越えました。
残暑厳しいながら、なごりの夏を楽しみます。
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近所を散歩すると玄関先に鉢植の花を飾られています。
先日散歩途中に咲いていた花です。
なんという名前が存じません。

この年になって、花の名前を聞きたくなります。
この花は、何ていうのか?
大きな公園にはその花の名前や原産地などが書かれています。

少し前まで、そんなことにも目を留めなかったのですが、ブログを始めてから気になるようになりました。
花は、四季の移ろいを示す「リトマス紙」です。

花を見て心を癒し、月を見て心を癒します。
ささやかな癒しです。
遠方に行かずとも季節は感じ取れます。

「花をのみ待つらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや」
家隆卿の和歌が浮かびます。

春の和歌ですが、夏にも秋にも冬にも言えます。
季節だけではありません。
人の生き方も同じかもしれません。

金銭や名誉が幸せとは限りません。
あればあるで越したことはないですよ。
私も欲しい。俗世の俗物です。

それでも、普段に幸せが感じたら、幸せの見え方も変わって来そうです。
一度山積の金銭を使い果した上で、これを言えばもっと重みがあります。
いえいえ貧乏人のひがみと取られても仕方ないです。

仏教の話の中にも同じような話がありましたね。
売る覚えです。
維摩居士であったような気もしますが、不確定で調べてみます。

話はこうです。
娘2人とあばら家で暮らす男です。
在家の身です。

人から見れば、貧乏人です。
どう見ても裕福ではないです。
しかし、こういう生活に身をおいているだけです。

無用なものは持ちません。
大きな船3艘に金銀財宝を乗せて河に沈めています。
隠しているわけでなく、今の生活に必要がないと沈めています。

しかし、お釈迦様の必要があれば、私財を惜しげもなく投じます。
でも、普段の生活に必要がないと、娘2人とあばら家暮らしです。

究極の贅沢ですね。
精神世界は充実している上に、ここぞと言う時には資金も調達できる。
日々の生活に贅をなすのでなく、社会の困窮のために贅をなす。
選挙も近いですし、政治家の先生方にやってもらいたいです。

贅も知り尽くした上で見る究極の物の排除、執着の排除です。
何が残るのでしょうね。

利休居士の言われる茶室は、贅と侘びの究極です。
今も当時も、家が一軒買えそうな高価な茶碗に、高価なお軸です。
花器も見た目と違い高価です。

もっと言えば、贅を尽くした小さい茶室一つで家が建つほどの価格です。
わざと詫びたものでなく、古い小材、いぶした竹と見た目は豪華ではありませんが、幾年重ねた時間と素材を選ぶ手間隙から考えれば、一つ茶室に10年を要しても満足することが出来ないはずです。

贅と侘びは一方で対極にあります。
また、一体でもあります。

利休居士は、茶杓もお手製です。
花入れも自分で作ります。

園城寺などは有名です。
北条攻めの時に3つの茶入れを自作されます。
太閤秀吉は気に食わないと庭の石に投げつけます。
そのため、竹ですから割れてしまいました。

水を入れると水か漏ります。
園城寺の鐘が割れているのにもじって、「園城寺」と名づけました。
今でも残っています。
私も昔、見たことがあります。

名前が「園城寺 少庵」と彫ってあります。
素人が言うのも変ですが、あれはいけません。
無粋です。
何ゆえ名前を入れたのか不思議です。
利休居士なら入れていないと思いたいです。

朱で色も入っていた記憶です。
花入れにしては、大きいと思いましたね。
ここに一種か二種の花を活けるわけです。

自分で摘んできます。
野辺や庭で咲いた花です。
四季の中で今を表現しなければなりません。

花で表現です。
何かを表現です。
花は花であって、花ではないです。
自然なのか、宇宙なのか、仏法世界なのか、分かりません。

でも、必要不可欠です。
要らない物を取り除いて、取り除いてした結果です。

花は必要です。
それも手に入る身の回りの花です。
日常の花です。

贅を尽くした上に贅を尽くした究極の中に、野辺の花一輪です。
何を意味するのか、感慨は深いです。

日常の花見るときにも、何かを得ます。
私には、きれいと思う気持ちだけです。
そこから、茶聖の求めた詫びも仏法世界も、いまだ分からずの凡夫です。

それでも、そこに花があり、花を美しいと見る心は持ち合わせています。
ありがたいことです。
この他人様の、玄関先の鉢植の花を見て、美しいと感じれる自分と出会えたことがありがたいです。

幸せはささやかなところにあります。
私はそう思います。

贅を尽くしたことはないけれど、目的地には近づいたような気になった一人勘違いをしています。
それでも、ありがたいと感謝です。

最後まで、まだまだ日中暑い最中、最後までお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。