''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ご存知、名作『南部坂雪の別れ』でござる。

最近、世の中は、デジタルという言葉に、右往左往させられます。
地デジカという鹿のキャラクターが、テレビによく出てくるようですね。

 

何もかもデジタルということですよね。
困惑します。
 
パソコンのディスプレーもアナログのD-Sub15ピンのケーブルでつないでいます。
DVIというデジタル対応のディスプレーですが、パソコンが対応していません。
ビデオカード、バルクの商品でも2000円くらいであると思います。
時間があれば、日曜電機屋に早代わりです。

 

最近、そんなこんなで、昔のVHSのテープをDVDに焼いて保存の作業をしています。
結構時間かかります。
テープのままでもいいのですが、やはり場所をとるのと、映像の劣化ですね。
湿気にも弱いですからね。
カビってしまっても困ります。

 

名作やお気に入りの映像もデジタル化したいと思います。
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今月のサブサイトルは「赤穂浪士」です。
300年と少し前の今日の朝方、主君の仇をとったことになります。

 

当日、雪も降っていません。
でも、雪が降らないと絵ならないですね。
それとあの音楽ですよね。

 

いろいろなドラマや映画で、撮られていますが、NHK大河ドラマ元禄太平記』(1975)もなかなか格調高くて、いいですね。
柳沢吉保役の石坂浩二さんの語りも、その品の良さを感じます。
それに江守徹さんも、今のようにバラエティーに出ていませんでしたから、作品に重みがありました。

 

一番人間として近いのは、『元禄繚乱』(げんろくりょうらん)(1999年)中村勘九郎時代の勘三郎さんの内蔵助ではなかったかと思います。
どちらもお気に入りの一つです。

 

映像だけでなく、話芸にもその粋見ることが出来ます。
ご存知、名作『南部坂雪の別れ』です。
ご存じない?
名作です。浪曲です。

 

ぐっと込み上げます。
時代劇ではなく、今にも通じる人の気持ちの細やかさです。

 

内蔵助が瑤泉院(ようぜんいん)に会いに行きます。
瑤泉院は、亡主君・浅野内匠頭長矩の妻、阿久里(あぐりです。
お家断絶後、実家の三次浅野の下屋敷に居ります。
このお屋敷が、南部坂にあったという設定です。

 

しかし、本当は南部坂には赤穂浅野の屋敷がありましたが、お家取り潰し後、幕府に摂取されています。
ですから、実家の屋敷は、今井町にありました。

 

今井町雪の別れ」になりますね。
坂じゃないしね。
坂が付くと、何となくぐっと来ますよね。

 

香西かおりさんの『無言坂』なんていう曲もありましたよね。
♪帰りたい 帰れない ここは無言坂

 

さだまさしさんの『無縁坂』『坂のある町』というのも納得です。(こっちはmomoさんにおまかせします)

 

タイトルは大事ですね。

 

話の内容は、内蔵助が、瑤泉院に今生別れにやって来ます。
討ち入るとは言いません。
「西国のさる大名家に召抱えられることになりましたので、再びお目にかかることもございません。内蔵助、今生の別れに参りました」
と無下に伝えます。

 

瑤泉院も、納得せざるを得ません。
巷の主君の仇打ちを期待していただけに、すこし残念な雰囲気です。
それも世の中です。

 

そうした人の心の動きが何ともいいですね。
浪曲師の女性役の台詞が何ともいいです。
演者の腕が、ここに終結します。

 

この声が「やーいらっゃい。リリアンよ」とリリアンさんの声じゃ、涙を誘えません。
もちろん、討ち入りを心の中では、決断しています。

 

西国の大名とは、西方浄土にある主君、浅野内匠頭に違いありません。
この世もあの世もずっと主従の縁があるようですね。
三世のご縁です。

 

三世とは、前世、現世、来世です。
人の魂は輪廻します。
この世は、修行の場です。
その修行の成果が、来世に現れます。

 

しかし、人として苦から逃れられません。
貧富の差はあります。
身分の差もあるのは当然です。

 

生まれた場所によって、人の人生は大きく変わります。
幸せに生まれた人が、幸せに死んで行くとは限りません。
その逆もあります。

 

そこに天からの使命が秘められていると思います。
何なすべきか、それに尽きます。

 

偉そうなことを書いても、そこは凡夫の悲しさです。
先人の偉業から、学ばなければなりません。

 

誰が得をしたのか?
誰が損をしたのか?
そこに損得はありません。

 

ドラマや映画の勧善懲悪とは違います。
自分が、如何に有意義に人生を送れたかですね。

 

今あることは、偶然ではありません。
必然です。
有るべくして生かされていると、感じることだと思います。

 

ありがたいと感じられる日々の生活こそ、幸せそのものです。
上を見ても、下を見ても、キリがないです。

 

責任ある立場の人は、それなりの生き方が求められます。
富ある者は、富みある者としての生き方が求められます。
それぞれの分にあった生き方があって、日常がある。

 

食事をするのも一緒です。
その内容は違うかも知れません。

 

形あるものもいつかは壊れる。
今あることは、「空」ですね。
しかし、その「空」の中に住まいして、日々を過しています。
イライラするもの、腹を立てるのも、嫌なことも「空」ですよ。

 

今あること、生かされていることに感謝することは、自分を見つけられるチャンスです。
今あることに感謝です。

 

今日も穏やかに一日が過せますに、手を合わせます。

 

最後まで、オチのないままの話に、長々お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。

 

(『ウィキペディアWikipedia)』参照、『忠臣蔵の99の謎』立石優著PHP文庫参照)