''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

焼いた秋刀魚に、すだちを添えて より。

晴天のお日様に、気温が上がっています。
夏を思い出します。
久しぶりの残暑に、少し汗ばみました。

朝晩の少し冷えた気温と昼間の気温の差で、体調が狂いそうになります。
夜の少し肌寒いくらいには、ぬる燗でもいいくらいです。
昨日、スーパーで少し値段も下がり傾向にある秋刀魚を見つけて、購入しました。
秋刀魚と言えば、この時期なら焼いた秋刀魚がいいです。
手軽にグリルで焼くだけです。

この時期、秋刀魚の記事を書いては、佐藤春夫の秋刀魚の歌を引用しています。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。

この抜粋した箇所が何とも言えず、いいですね。
ここの解釈を何度か書いています。
佐藤春夫は、和歌山県新宮出身ですから、蜜柑のようですね。(橙もありです)
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焼いた秋刀魚に、すだちを添えました。
私の場合には、すだちが美味いです。
絵面的には、大根おろしに、添えたいです。
一人前だけするのが、面倒です。

時々、大根おろしが食べたくなります。
すりおろした大根を汁ごと、頂きます。
汁を啜って、適度な水分が抜けた段階で、醤油を落とします。
これを、熱々のごはんに少しずつかけて頂くのは、大好きな所です。

もちろん、おじゃこ入れた大根おろしも好きです。
ただ、痛風患者ですから、じゃこの入れ過ぎは、御法度です。
じゃこは、漢字で書くなら、雑魚ですね。
同じ音で、ざことも読みます。

「ざこ」と言えば、桂ざこばさんです。
もともと、ざこばとは、雑魚場、つまり、魚河岸の事ですね。
中央市場みたいな、魚を扱う場所を指すと聞きます。

私が、生の落語を最初に聞いたのが、実はこの桂ざこばさんなんです。
テレビで見るのとは、全く別の落語家の顔でした。
当時、桂 朝丸さんでしたが、話にぐっと引き込まれる力があったのを思い出します。
直線距離で、5メートルもない高座でした。

落語の生のライブ感はいいですね。
劇場の歌舞伎と何か似ています。
テレビで見るのとは、臨場感というか、空気感が違います。
それに照明ですかね。

秋刀魚を食べながらなら、もちろん、『目黒のさんま』でしようね。
この殿様に付いて、諸説あります。
単に「然る御大名」とだけ描き、名前を付さない演出も多いです。

『松曳き』に登場する赤井御門守とする方もいます。
時には、使用軍様をこの殿様に設定される噺家さんも居られます。

赤井御門守さまも、実在の人物ではありません。
東大の赤門をもじった名前です。
ただ、その石高も「12万3,456石7斗8升9合1つかみ半分」とされることが多いです。
落語に登場しそうなユニークな殿様です。

焼きたての秋刀魚を、お替りするほどですから、余程お気に入りになったのでしょうね。
それ以上に熱々の食事が珍しいと思います。
何度も毒味役の家来が居ますからね。
調理場と、食事をする場所が離れています。

まして、下魚の秋刀魚が、殿様の口に入るはずもないから、話として面白いのでしょう。
秋刀魚の水揚げのない目黒の秋刀魚が一番という最後のオチが、よく聞いてくると思います。
同じような落語に、私も聞いたことがないですが、「ねぎまの殿様」と言う話があるようです。

滑稽な落語は、私の好みではありませんが、食べ物が出て来る落語は好きですね。
演者の腕が見えます。
落語のうどんの食べ方は、どうも嘘くさくていけません。
あんなに誇張してうどんやぞはを食べることはないです。

物事は、すべて虚と実の狭間が、面白いです。
真実かもしれないし、嘘かもしれない。
それが、芸の粋だと思います。

貧乏人であっても、そう見えないというのがいいんです。
また、お金持ちであっても、そう見えないのがいいんです。

お金持ちがお金持ちに見えたら、嫌味です。
仏法の世界でも、居士と言うのがあります。
そう戒名とかに付いたりして、仏教徒を示す言葉です。
もともと、居士の語源は「(家に)居(を)る士」であり、野にあって仕官をしない人の意であると聞きます。

仏教の中でも、『維摩経』と言う経典があります。
この維摩経の内容として特徴的な事は、「不二法門(ふにほうもん)」と言われると聞きます。
不二法門とは、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではなく、表裏一体の関係にあるという事を説いていると聞きます。
まさに虚と実ですね。

主人公の維摩居士の物語です。
何かの本でよんた記憶によると、古代インドの大商人で、巨万の富を車2台分に乗せて、それを川に沈めています。
それでいながら、娘さんと一緒に粗末な小屋で暮らしているとも聞きました。

人から見れば天邪鬼な性格の人だと言えますね。
でも、その行いは仏法の教えそのものだと聞きます。
禅の言葉、禅語の中に「直心是道場」と言う言葉は、この維摩居士の言葉としてあるようです。

光厳童子が、ある時修行に適した場所を探そうと、賑やかな毘耶離城(びやりじょう)の大門を出ようとした時、ばったりと城内に入ろうとした維摩居士に出会います。
この時、童子が「どちらから来られました?」と聞くと、維摩居士は「はい、道場から来た」と答えたと言います。
見回しても、どこにもそれらしき道場はありません。

場所の事ではないわけです。
自分のいる場所が、すでに道場だと言いたいのでしょう。
修行は、どこにいても出来ます。

妙法蓮経の如来神力品第二十一にも、同じようにフレーズがあります。
若しは園中に於ても、若しは林中に於ても。若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても。是の中に皆塔を起(た)てて供養すべし。所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。

どこにあっても、修行も学びも出来ます。
この便利な世の中では、電車の中でも、喫茶店でも、公園にあっても、プログの記事を書く事もアップすることも出来ます。
便利な世の中になっています。

ただ、私は長文のブログゆえに、キーボードがないと記事は書けません。
それも、今や化石と言われるような「かな使い」です。
ローマ字入力ではないんですよ。
もちろん、ローマ字入力も出来ますが、速度が全く違いますからね。

かな入力だと、秋刀魚のように、シューッ抵抗感がなくスムーズに行きます。
庶民の愛する秋刀魚も漢字の表記なら、高そうです。
でも、かなで書いたさんまは、ましく庶民の食卓に毎日でも上がりそうなイメージです。
今年は高等気味の秋刀魚ですが、いつまでも庶民の愛すべき食卓の味であって欲しいです。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁を得たと、感謝して暮らさせて貰っています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
それを願うばかりです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事でありますようにと念じます。

最後まで、秋刀魚から派生した故事来歴の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。