''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

2月の禅語「山静如太古」を想う より。

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朝から寒いですね。
あちこち、大雪のようです。
京都も今年一番の寒さかもしれません。
ブルブル振るえています。

 

恩師に頂いた禅語のカレンダー、2月の禅語は、山静如太古(やま しずかなること たいこのごとし)です。

 

静岡の方廣寺派管長 大井際断老師の書です。
かすれと字体と、勢いのある筆遣い、味がありますね。
私のような薄学の凡夫には、知らないと読めません。

 

解説には、「日常の生活は時間に追われる毎日であるが、一人山中にわけ入れば、そこには太古のままの静寂があたりを支配しており、ゆったりとした時間が経過している。時流の中にあって、時が時流を越えた自然に帰ることがもとめられている。「日長きこと少年の如し」と続く北宋の唐庚の詩の一節である」書かれています。

 

北宋の詩人・唐庚(とうこう 1070~1120)の五言律詩「醉眠」に「山靜似太古、日長如小年」または「山靜如太古、日長似小年」を作るとあります。

 

意味は同じですが、「山靜如太古、日長似小年」の方が、如しの言い回しが壮大で、自然を表現するには、如しの方が私は好きですね。

 

意味は、別の解説では、「山は静まりかえり太古のようで、日は一年もあるかのように長い」のようです。
少年なのか、小年なのか、少し意味が変わりますよね。
どちらにして、詩の方は、アルアルタイムをして、酔って眠るというタイトルです。
寒いときには、やはり、燗酒でしょうね。
それじゃ、昨日の記事のおでんですよ。

 

山に分け入って、一日がゆっくりと流れるような気分になるでしょうね。
毎日忙しいと、温泉にでも入って、ゆっくりしたいです。
電話もメールも離れて、何もしないでいるのも、たまには必要です。

 

しかし、最近流行のスマートフォンや携帯電話に依存している人が多いですね。
手に持っていないと不安になるようです。

 

自動車を運転しながら、手にしている人もよく見ます。
挙句には、バイクや自転車に乗りながら、手にしている人もいます。
危ないです。

 

それにして、インターネットやメールというツールがないと何も出来ないと思うんでしょうね。
それに音楽を常に聞かれています。
私も、このブログを書いたりしている時は、音楽などはかけません。

 

オフィスの仕事をしている時も、滅多にかけないですね。
たまに、音楽のPV動画を見たりしますね。
JUJUなんていいですね。

 

ドラマ仕立てになっていて、そこにJUJUの歌が流れます。
音楽のPVですから、ドラマには台詞もないです。
それでも、そこにある歌の世界のようなドラマが流れます。

 

バラード系のゆっくりした音楽は、心が癒されます。
少し切ない音楽がいいですね。

 

基本音楽を流しません。
いろいろとすることもあります。
そんな中、ゆっくりしたいと思いますね。

 

山に入らずとも、少し静かにしていると、静寂が流れます。
貧家は、意外と静かです。
あまり音もしません。
時に灯油の販売の音楽が、流れることもあります。

 

♪ 雪やこんこん あられやこんこん~
でも、これは間違いらしいです。
「雪やこんこ あられやこんこ」のようです。(へぇー、へぇー、へぇー)
知らないことが多いです。

 

私たちの地域は、この音楽が流れると、灯油の宅配業者が、家々を廻ります。
灯油の欲しい人は、声をかけるか、灯油のポリ容器を家の前に置くと、入れてくれます。
毎回、同じ方が定期購入されています。

 

雪は、「こんこ」とは降りません。
無音です。
シンシンという言葉がありますが、モクモクと降ります。
その情景がまた寒いこと、寒いことです。
今日は、雪のようです。

 

仏教の経典の中に維摩経と言うのがあります。
この中に、ある若い修行僧が、城下町の街中、人の往来が多いところで、静かで修行に適した場所を探していました。
すると、向こうからやって来た主人公の維摩居士と出合った。(ウルルン風に言ってね)

 

若い修行僧 「あなたは、どちらから来られたのですか?」
維摩居士  「道場から来たんだ」
しかし、それらしき道場は、見当たりません。
「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」維摩居士は答えた。

 

どこにあっても、修行は出来るし、どこにあって、道場の中に居られると言う事ですね。
なかなか意味が深いです。
山の中にあっても、街中にあっても、どこでも修行が出来るという事ですね。

 

経典の中、「妙法華経」「如来神力品第二十一」にも出て来ます。
若しは園中に於ても、若しは林中に於ても。若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても。是の中に皆塔を起てて供養すべし。所以(ゆえ)は何(いか)ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。

 

常に、心の持ちようです。
毎日の疲れも、心のストレスも、どこかに行くだけでなく、心の中にそれを求めることが出来ます。
無心になれることが、ストレス解消です。
好きな音楽を聴いたり、DVDを見たり、大好きな趣味を楽しんだりすればいいですね。

 

それ以上に、何も考えないことが、いいです。
山の中に入ったても、ずっと仕事の事やら家の事が、気になれば何もなりません。
考えすぎると疲れます。

 

禅の時、座禅をして、心を穏やかにするために、数を数えます。
1から10までの数をゆっくりと数えます。
10になったら、また、1から数えます。

 

その繰り返しです。
すると、その数を数えていることすら、忘れる瞬間があります。
無心の状態ですね。

 

心が、世俗と分離出来ます。
自然と一体になった常態かもしれません。
温かいお湯の中に浮かんでいる状態のように緊張もなく、自然体となれています。

 

これなら、道場に行かずとも、自分のオフィスでも、昼休みの公園でも、出来ます。
ただ、アラームをセットして下さいね。
そのまま、時間が流れます。
知らずに、魂がどこかに行かないように、紐を付けないといけないですよ。

 

ここにも、道場が出来ましたね。
ありがたいことです。

 

日々の暮らしの中にこそ、幸せがあります。
特別な幸せは、滅多にないです。
毎日毎日が、それが本当の幸せです。
特別なものでなく、身近なところにあるんです。

 

拾うか、拾わないかだけですね。
私は、拾いっています。

 

ありがたいことに、私は仏縁を頂いています。
ありがたいと感謝しています。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすのが、願いです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。