''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

内蔵助の母方親族 池田 忠雄 (輝政の三男 実は六男)

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赤穂藩 筆頭家老 大石内蔵助良雄 血縁関係 の「け」 

 

池田 忠雄(いけだ ただかつ)

淡路洲本藩主、のち備前岡山藩第2代藩主。因幡鳥取藩池田家宗家2代。

播磨姫路藩主・池田輝政の三男(実は六男)。

母は徳川家康の次女・督姫岡山藩初代藩主・池田忠継の同母弟。

 

慶長7年(1602年10月28日姫路城で生まれる。徳川家康の外孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本城に6万石の所領を与えられたが、父の姫路城に留まり、重臣が政務にあたった。

 

元和元年(1615年)、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。洲本藩は廃藩。淡路一国は、徳島藩蜂須賀至鎮にあたえられた。

岡山城に入ることとなった忠雄は遺領38万石のうち、忠継が相続した母・良正院化粧料10万石より同母弟・輝澄山崎藩3万8,000石)や政綱赤穂藩3万5,000石)、輝興平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5,200石となった。

 

寛永7年(1630年)7月11日、寵愛する小姓渡辺源太夫藩士河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本安藤正珍岡山藩池田家との争いに発展した。寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、31歳で死去した

死後、家督は長男・光仲が継いだが、幼少だったために因幡鳥取藩に移封された

 

父:池田輝政

母:徳川家康の次女・督姫

 

兄弟

利隆忠継忠雄輝澄政綱輝興政虎輝高利政、ほか女子

 

妻 

正室蜂須賀至鎮の娘・三保姫

 

光仲

仲政

 

ウィキペディアWikipedia)』参照