''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

内蔵助の母方親族 池田恒興 高々祖父

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赤穂藩 筆頭家老 大石内蔵助良雄 血縁関係 の「け」 

 

 

池田 恒興(いけだ つねおき)

清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助輝政など。

 

天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。

父の恒利は早くに死去したとされる。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。

 

本能寺の変にて信長が家臣の明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5,000を率いて右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。

 

織田家の後継を巡る清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、秀吉・丹羽長秀と共に信長嫡孫の三法師(織田秀信)を擁立し、領地の再分配では摂津国の内大坂尼崎兵庫において12万石を領有した

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦していないが、美濃国内にて13万石を拝領し大垣城に入り岐阜城池田元助が入った。

 

天正12年(1584年)、徳川家康織田信雄との小牧・長久手の戦いでは、去就が注目されたが結局は秀吉方として参戦した。長久手(勝入塚)にて長可と共に戦死。享年49。

嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督は次男の輝政が相続した。

 

父:池田恒利

母:養徳院

正室善応院(荒尾善次娘)(元は織田信時の室で、信時との間に娘(七条)が恒興の養女としてはじめ飯尾敏成、のちに下間頼龍に嫁いだ。池田重利の項目参照)

 

従兄:滝川一益

 

 

長男 元助

次男  輝政

三男 長吉 (長吉流池田家初代当主で、因幡鳥取藩初代藩主)

四男 長政 (片桐池田家初代、備前国下津井3万2000石の領主)

安御院 せん(森長可室、後に中村一氏室)

若政所豊臣秀次正室

天球院(山崎家盛正室、後に離縁)

慶雲院(浅野幸長正室

女(織田勝長正室

 

養女 正室 善応院の娘:七条織田信時の娘、飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室

 

ウィキペディアWikipedia)』参照