昨日は、津の観音様にお参りした記事を書きました。
津は、やはり県庁所在地だけあって、街中も都会です。
それも、藤堂高虎の存在が大きいです。
徳川の戦にあっては、常に先陣を切る特命を受けています。
その藤堂高虎がこの津の歴史に残した足跡は大きいですね。
戦国時代にあって、男はいろいろな戦国武将を、自分の立ち位置に置いて、一度は考えるモノです。
もちろん、戦国と同様に、幕末でも同じようなことを考えると言えるかもしれません。
ただ、戦国にあっても、憧れる戦国武将の中で、藤堂高虎の名を上げる方は少ないでしょう。
武将と言うよりは、世渡り上手な政治家です。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となり、着々とその地位を高めていきます。
何度も主君を変えた戦国武将として知られます。
特に築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城して、黒田孝高、加藤清正等とともに名人として知らています。
私的には、豊臣秀吉の方が、築城に関しての知識と技量を感じます。
池波正太郎の小説「戦国幻想曲」にも、渡辺勘兵衛の舅として、描かれています。
主人公の渡辺勘兵衛も、阿閉淡路守、中村一氏、増田長盛、藤堂高虎と主君を変えて仕えて来ます。
時代が、武功よりも政治的な素養が必要な時代に変化している時代の変わり目でもあった。
特に、増田長盛に仕えてから、その主眼が変わって来てますね。
そんな中、藤堂高虎もその時代の流れに乗って、最後には、津藩の石高は計32万3000石になりますね。
天正4年(1576年)に秀吉の弟・羽柴秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕える所からしても、大出世です。
何かのご縁があったかもしれません。
若い頃、放浪していて、もしかしたらお伊勢さんに信心していたのかもしれませんね。
そう疑うこと莫れです。
芭蕉の句碑があります。
うたがふな潮の花も浦の春 芭蕉の句 (出典 『いつを昔』 其角編)
元禄2年(1689年)春、芭蕉46歳の句とあります。
「二見の図を拝み侍りて」と前書きがあり、「うたがふ」「潮」「浦」と頭韻を踏んでいるとの説明があります。
疑うなとは、二見が浦の神である伊勢神宮の神德を決して疑ってはいけない、という意味のようですね。
神仏は、尊いモノです。
私も信心を欠かしません。
昨日の津から二見が浦まで足を延ばしました。
親子3人の貴重な時間を過ごすことが出来ましたよ。
ありがたいことです。
霊験あらたかです。
小学校の修学旅行ぶりの2度目の夫婦岩です。
それも、夫婦して、娘を連れての3人で来ることが出来たのは、感慨深いです。
小学生の時から、約43年ぶりと言うことなりますね。(計算に自信がありませんが・・・)
少し浜辺を娘と歩いたりして、すこしだけ時間を過ごしました。
娘のゆうゆうも、海を前にして、大興奮でしたね。
22日からのGOTOキャンペーンなら、人出もあるんでしょう。
今ならと、少し遠出しました。
ありがたいことです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。