''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

小さい花に見る春の予感。

ここの所、体調がすぐれないということもあり、家でゆっくり過ごしておりました。
昨日の休みの日には、少し散歩がてらの買い物です。
すこし、遠回りをして見ました。
そんな途中の路地で、壁に鉢植えが置いてあります。
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小さい可愛い花が咲いています。
よく見ないと判りません。
ナズナではありませんが、名の知らない花です。

「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」 by松尾芭蕉

こんな俳句が浮かびましたね。
まさしくブロックの垣根ですがね。

可愛い小さい花に変わりはありません。
よく見ないと分からない美しさです。
目線を下げてみないと分からないことは多いです。

世の中には、見えるものと見えないものがあります。
物質的なものも有りますし、次元的なもの、精神的なものと、いろいろな意味で捉えることができます。

仏の世界、特に「妙法華経」の世界では、見えない世界「妙」と見える世界「法」の二つに分かれます。
見えないと言っても、人には見えないだけなのか、本質的な無い状態なのかは、少し置いておいて、見えないものの一つに、人の心があります。

計り知ることは出来ても、その心の内は人には見えません。
何を考え、何を思うのか、分からない世界でもあります。
それに比べ、人の身なりは見ることが出来ます。
顔であったり、服装であったり、その行動であったりと、目で見て判断できます。

人の身なりで判断してはいけないといいます。
しかし、その身なりと心根とは一致していません。
高価なものを身に着けているとか、いないとかの判断は必要ではありません。
それは人を判断する材料ではありません。

このいう身なりは、判断する身なりではありません。
しかし、質素なものを身に着けようが、人様と接する以上、清潔にする必要はあるように感じます。

人が不愉快を感じない程度の身なりは必要です。
そこには、見えないはずの気遣いが見えます。

つまり、見えない世界も、表現することによって見えてくるはずです。
特に、心は自ずと見えて来ます。

それでも、よりはっきりと分かるように、気持ちは添え必要があります。
感謝の気持ちも、「ありがとう」と言葉を添えると、その見えない言葉や気持ちに見えない心が共鳴します。

見えない世界は、見えないながら、存在を実感できます。
見える世界は、見ることが出来ながら、それが真実はどうかは不明です。
見えているだけで、その見えない人間の気持ちも、見え隠れします。

見えているから、本当の人の気持ちが見えないということもあります。
惑わされるということもあります。

要するに、「見える」も「見えない」も究極的には、さほど関係がないとも言えます。
見えないものの中に真実があることも多いです。
しかし、凡夫の悲しさ、見えるものに惑わされます。

真実が見えてこないことも多いです。
そこには、損得という雑念が絡むと見えにくいです。

一度、損得という概念を捨て去ることが必要です。
気持ちを「無」にする。
色眼鏡をかけずに、物事を素直に見ることが必要です。

花はいいです。
何も言いませんし、損得を感じさせません。
野辺に咲く花には、値札が付いていませんし、それを飽くまで眺めていられます。

何かに固執しないところに「無」があります。
こだわると見えるものが見えなくなったり、また逆もあります。

今あることは、何を言わずにおいても、ありがたいと感謝すべきことです。
花を見て、綺麗と感じ、月を見て、美しいと感じる素直な気持ちは、心を解き放ちます。
「無」ですね。
「無」からは「有」しかありません。

今ある状況が「無」であり、それでいて穏やかに過ごせることは幸せです。
さすれば、「有」ならもっと幸せのはずです。
無も有も幸せと言うことです。

それが、見えるか見えないかにかかわらずです。
ありがたいと感謝の気持ちは見えないけど、ありがたいという気持ちも見えません。
見えない世界も、見える世界も、表裏一体です。

今あることを見定める。
これが幸せのポイントなのかもしれませんね。
感謝がキーワードです。

今日も一日平穏無事に過ごせますように祈ります。

最後まで、見えない妙な話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。