''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

空豆を食う。

昨日は少し寒かったですが、今日は一転暖かいですね。
日差しに当っていても、5月頃の日差しです。

昨日は、小難しく仏法世界の「空(くう)」を書き記しました。
空と来れば、「空豆」です。
空豆(そらまめ)は大好物です。

軽く塩湯でして、後は塩で頂く、これに付きます。
煮付けても美味いですが、やはり塩茹でが好物です。
これを手で皮をむいて、塩付けて、お決まりの日本酒です。

春というより少し夏に向けての、初夏の装いでしょうかね。
スーパーで見つけました。
房のない豆だけの特売品(150円)です。
私には十分な量です。
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白いお皿に白い塩では、見えにくいですね。
そういうことで、イチラーは一味を塩と一緒に添えてみました。
彩りはいいですね。
少し辛そうな感じですが、塩分を控えるためには良い方法です。

いつものお気に入りのはまぐりの皿です。
他にもいろいろな皿を持っていますが、どうも大きさといい、使い勝手といい、これをよく使います。
皿も猪口も使うものが決まってきますね。

手に馴染むというのでしょか、しっくり来ると言うのでしょうか、お気に入りとは言うのはそうしたものかもしれませんね。
値段の多寡に関係なく、愛用品というものがあります。

たまに違うものと浮気心も生じます。
自分の持ち物も平等に愛することは、なかなか出来ませんね。
優劣がそこに付きます。

太陽の光は、遍(あまね)く物に平等に降り注ぎます。
人にも植物にもです。
もちろん、地下深くには到達出来ません。
しかし、日差しを好まない物もそこに居場所があることにもなります。

仏様の慈悲の心も奥深いです。
そこはかとなく深いものです。
太陽の日差しのように遍(あまね)く人に接します。
それを感じるか感じないかは別です。

私は、今日の日差しのように、精一杯体で感じます。
いつも身近に感じています。
見えないものですが、しっかりとその存在を感じます。
確かに存在は感じます。

そうしたものはあります。
連続テレビ小説ゲゲゲの女房」でオババの登志(野際陽子)は言います。
「見えないけれど、感じる」とね。
見えるか見えないかは、あくまでも今の状態です。

見えない世界が、見える人もおいでです。
私は怖いものは見たくないです。
しかし、見えないものはあるのは確かです。
不思議なことがあるは確かです。

「空(くう)」の世界です。
ちょうど空豆のはまぐりのお皿のようです。

その中に、物が盛ってあるか盛ってないかです。
時に焼き魚であったり、お菓子であったりします。
そのお皿の上では、どんなものでもあったり無かったりします。

有るときは見えます。
これは法の世界です。
無いときは見えません。
これは妙の世界です。

しかし、この皿には今、この上に無いだけです。
頭で思い浮かべると、何でもこの皿に乗ります。

時に、鯨でも、自動車でも、お城でもです。
実際には乗りません。
空想の上です。

でも、空想すればこんな小さい皿にも乗ります。
空とは便利なものです。
今は何も乗っていません。

人も同じです。
その上にあるときは、現世ですね。
過去にこの皿にあったときは、過去世です。

この皿に盛られるというのは、縁でもあります。
どんな皿に盛られるのか、この皿も形は変わるかもしれません。
それもご縁です。

皿を持ち出して、仏法を語るのは変ですね。
しかし、それは方便として見えないものを見せる手段です。
盛る皿、盛られる皿があるということは、ありがたいです。
私は仏縁を感じます。

空は食うです。
春を食し、春を感じ、何かを感じる。
日々の営みです。

絵空事と笑って下さい。
えー皿事と笑って下されば、オチも付きます。

今日も、私も世の中も、平穏無事に一日が過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、さらっとした話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。