''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

平安象彦の竹皿に何を盛るのか? 

いよいよ、今日でブログを始めてからまる15年が過ぎ16年目に突入します。 

2008年2月15日にヤフーのブログを始めて以来、ヤフーのブログのサービス停止を受けて、はてなのブログにお世話になっています。 

 

私生活の面でも、嫁とこのブログで出会って、縁あって夫婦になって、更に一緒に暮らし始めて、3ヶ月ほどで観音様のお力を得て、子供が授かりました。 

私の生活の中、私生活の15年を書き記したブログになりました。 

多くの方の励ましや支えを得て、今日が着た次第です。 

ご拝読の方々に、重ねて感謝致します。 

 

そうそう、私たち夫婦は、一時流行った「ブログ婚」という事になります。 

そう言う出会いも、あるんですよね。 

ある日を境にして毎日ブログ記事を書き記すようになりました。 

つまらない記事も多いです。 

でも、毎日続けてこそ見えて来る世界があるんですね。 

 

忙しくて続けて行くのが困難だと感じた時期もありました。 

でも、少し手を抜いてもいいんだと思うと、楽です。 

自分を追い詰めないことです。 

時に、頑張らないことも大事です。 

 

最近では、記事を書ける時に、書き貯めて、アップしていることもあります。 

それも、問題ないと思います。 

何のために続けるのか、やらされているわけでもありません。 

自分が書きたいと思うから、書いているだけです。 

 

ストレスの解消にもなりますし、1日を整理する大事な作業で思うと、気持ちも変わります。 

日々の暮らしに、ストレスを貯めないように暮すのは難しいですが、多少ストレスと思うくらいの方が、やる気が出ると思えば、これまた幸いです。 

 

時に、禅の言葉を聞いて、心のストレスを解消させたりしています。 

仏の世界は、一人一人に違った対応の対機説法であり、人の暮らしは相対観の世界です。 

何かに比べて、良いとか悪いとか、判断するわけですね。 

 

でも、真の仏の世界は、絶対観の世界だと思います。 

人は、食物を摂らずに生きてはいけません。 

それが、他の生き物の命を頂くことになりますが、そこに動物の命も植物の命も、変わりないのです。 

 

人としての「業(ごう)」です。 

つまり、人が生きてい行くというのは、罪深いことです。 

 

禅の言葉、禅語の中に、「松無古今色、竹有上下節」と言うのがあります。 

松の色は、年中変わらず緑だし、竹には上下に節があります。 

当たり前の事のようですが、禅の言葉にして聞いたら、何か意味深いです。 

人は、平等と言いながら、現実社会では、平等ではありません。 

竹に上下に節があるのと同じです。 

 

貧富の差もあり、社会的地位の格差もあるのが現実です。 

でも、仏の前では、平等です。 

金持ちでも、貧乏人でも、1日24時間、貧富に関わらず、食事の回数に劇的な差はありません。 

むしろ富める人は、健康に考慮して、暴飲暴食を控えて、健康的に静か暮すように努めておられます。 

「金持ちケンカせず」の喩えもありますよ。 

 

穏やかに暮らす。 

平穏に暮らす。 

特別な幸せは、滅多にやって来ないからですね。 

 

日々の暮らしの中で、自分の身の丈に合った幸せを探して、それを得て平穏に暮すことだと思っています。 

「道は近きにあり」です。 

 

親子3人静かに暮すように、神仏の加護を得られるように、暮させて貰っています。 

ありがたいことだと、感謝の気持ちを持って暮させ貰っています。 

ありがたいことです。 

 

 

突然ですが、嫁愛藏の平安象彦の竹皿です。 

お隣近くは、確か一時社会現象にもなった古今の方の御屋敷ですね。 

平成の最初の頃に、あの噂も聞いて知っていました。 

今は昔の事ですね。 

 

象彦の「ぞ」

 

竹は、上下に節はありますが、節を抜いて、平たくすれば、こんな立派な竹皿になるんですね。 

竹皿は、漆黒に金の鶴ですね。 

 

1羽の鶴なので、お皿で言えば、単鶴紋になるんでしょうね。 

2羽の鶴なら、双鶴紋、鶴の群れだと、群鶴紋と器では言われます。 

鶴は千年、亀は万年と長寿の象徴です。 

 

この竹皿に何を盛ろうかと、迷います。 

我が家では、菓子皿として使う事が多いです。 

本来は、何に使うのか不明ですが、それ程使い方は間違っていないと思っています。 

 

竹皿は、空の時もありますし、何か盛られていることもあります。 

空とは、何もないという無の事でなく、そこに有と無が、存在する存在だと思っています。 

無から有は生じないからです。 

この竹皿のように、そこにものがあるなら有であり、ないなら無ですね。 

 

竹皿は、常にあるんですよ。 

見えるか見えないかで言うなら、見えない世界の「妙」と見える世界の「法」、曼荼羅で喩えるなら、胎蔵界金剛界でしょうかね。 

明石家さんまさんで言うなら、チーズケーキでは喩えられません。 

 

仏の世界で言うなら、この世界は、仮の世界です。 

過去世、現世、来世と輪廻が続くわけです。 

肉体は無くなっても、魂はそこに有ります。 

過去世の記憶も、ある方も居られますが、普通は、肉体がなくなると、魂の記憶はリセットされるのでしょう。 

 

私の来世も、この竹皿のように、違う来世が何か盛られるのでしょうね。 

本質的な竹皿は、変わらず存在します。 

映画のバック・トゥ・ザ・フューチャーみたいに、現世で修行すれば、来世はもっと立派な皿(御屋敷)になっているのかもしれせんね。 

 

私の場合は、玄関の土間に、3畳と4畳半の二間に、流しが付いて至るだけの簡易な長屋でしたよ。 

来世は、もう少し大きめの長屋になっていると良いのですがね。 

確か布団は置いたままにして来ましたので、向こうに行ったその日から布団でゆっくり寝られると思っています。 

 

それとも、最近巷で有名になっている強盗団に持って行かれたら困ります。(笑) 

初日から野宿は、ご勘弁願いたいです。(往生しまっせ。チッチキチー) 

 

意味不明な戯言にお付き合い下さいまして心よりお礼申し上げます。 

15年も通過点です。 

16年目も宜しくお願いします。 

 

親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。               

ありがたいことです。             

             

ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。               

ありがたいことです。               

               

日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。               

神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。               

ありがたいと感謝です。               

               

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