昨日は暖かかったですね。
春の陽気より初夏を思い出しました。
そんな京都です。
春の陽気より初夏を思い出しました。
そんな京都です。
春の桜の季節とあって、今日も花見の宴があたらこちらで見かけられそうです。
朝方少し雨が降っていたものと見え、朝に地面が少し濡れていましたね。
しっとりとした感じです。
来週、もう一度気温の下がる時があるようなネットの天気予報です。
朝方少し雨が降っていたものと見え、朝に地面が少し濡れていましたね。
しっとりとした感じです。
来週、もう一度気温の下がる時があるようなネットの天気予報です。
少しブログのアップを終えたら、散歩がてら名残の花見に向かおうかと思っています。
先日暖かい日がありましたよね。
仕事場のY支配人からの差し入れです。
柏餅です。(まんじゅうは怖いないですよ)
この時期なら、桜餅でしょうが、陽気に誘われて、柏餅の気分だったのでしょうね。
ありがたいと頂戴しました。
すると、隣のフロアーのMさんから、桜の湯のみに渋めのお茶です。
先日暖かい日がありましたよね。
仕事場のY支配人からの差し入れです。
柏餅です。(まんじゅうは怖いないですよ)
この時期なら、桜餅でしょうが、陽気に誘われて、柏餅の気分だったのでしょうね。
ありがたいと頂戴しました。
すると、隣のフロアーのMさんから、桜の湯のみに渋めのお茶です。
これが何とも美味しい。
いつもおば様Mさんの入れる緑茶はうまいです。
♪ ねぇ、おばさま~ (浪曲「自転車と竹田宮様」より)
ほんに少しだけ濃い目です。
この濃い目が、柏餅の餡の甘さとコラボします。
お茶を飲むというより、喫すると言った感じです。
いつもおば様Mさんの入れる緑茶はうまいです。
♪ ねぇ、おばさま~ (浪曲「自転車と竹田宮様」より)
ほんに少しだけ濃い目です。
この濃い目が、柏餅の餡の甘さとコラボします。
お茶を飲むというより、喫すると言った感じです。
先日も入れて頂いたお茶や頂いたお菓子を写真に撮っていると、不思議そうなお顔です。
「私、ブロガーなんで、日常を写真に撮っているんです」
と言い添えました。
「私、ブロガーなんで、日常を写真に撮っているんです」
と言い添えました。
もちろん、いつも美味しいお茶頂いていますという、お礼とこのお茶も写真にします。
そして、ブログにも乗せるんですよと、言い添えました。
信じて頂けたかどうか不明ですが、私を知っている人には、ブログ名とかは言いません。
ブログをしていると言うことだけしか、伝えていません。
そして、ブログにも乗せるんですよと、言い添えました。
信じて頂けたかどうか不明ですが、私を知っている人には、ブログ名とかは言いません。
ブログをしていると言うことだけしか、伝えていません。
この大切なブログに日常を持ち込まれても困ります。
バーチャルであるが故に、書きたいことを書き、言いたいことを言います。
それだけです。
バーチャルであるが故に、書きたいことを書き、言いたいことを言います。
それだけです。
気持ちが若いのはいいですね。
関西でいう、おばはんには成っていらっしゃらないですね。
穏やかな「おば様」と言う感じです。
あんな年のとり方はいいと思います。
関西でいう、おばはんには成っていらっしゃらないですね。
穏やかな「おば様」と言う感じです。
あんな年のとり方はいいと思います。
イライラ虫が、集団発生しているような仕事場です。
使った物を片付けよと、60歳をすでに回った方に、注意をしないといけないような状況です。
何故、常識の枠で生活されないのか、仕事をされないのか、不思議でたまりません。
使った物を片付けよと、60歳をすでに回った方に、注意をしないといけないような状況です。
何故、常識の枠で生活されないのか、仕事をされないのか、不思議でたまりません。
人の世の中には、いろんな方がおいでです。
この人の世にあって、天に住するような方も、この人の世に過ごします。
餓鬼、畜生に住する者も、間違ってこの人の世に住します。
この人の世にあって、天に住するような方も、この人の世に過ごします。
餓鬼、畜生に住する者も、間違ってこの人の世に住します。
人の心にも、餓鬼、畜生の心が住むこともあります。
もちろん、天が住む事もあります。
もちろん、天が住む事もあります。
人の心には、神も悪魔も共に住する恐ろしい生き物です。
それを制するには、なかなかの修練が必要です。
物の善悪は、まさしく相対的ものです。
それを制するには、なかなかの修練が必要です。
物の善悪は、まさしく相対的ものです。
仏法世界では、すべてが悪であり、すべてが善という絶対的な世界です。
すべてが悪とは、不思議でしょうね。
でも、人が生きるは何かの犠牲の上に存在します。
何かを食するということです。
生きるということは、何かを犠牲にすることです。
すべてが悪とは、不思議でしょうね。
でも、人が生きるは何かの犠牲の上に存在します。
何かを食するということです。
生きるということは、何かを犠牲にすることです。
存在そのものが、ある意味「悪」とも言えます。
でも、仏縁の中にあって、この世に住することは、悪ではありません。
悪になるか、善になるかは、心の持ちよう、人の生き様に関わってきます。
でも、仏縁の中にあって、この世に住することは、悪ではありません。
悪になるか、善になるかは、心の持ちよう、人の生き様に関わってきます。
今あることは、偶然の偶然、つまり必然です。
あるが故に、ここにあると言うことです。
あるが故に、ここにあると言うことです。
今あることを自覚して、今あることに感謝すれば、物事の善悪が少しは見えるように感じます。
まだまだ修行の身です。
まだまだ修行の身です。
人の悪さに、おろかさに腹を立てています。
そんな自分におろかさを感じます。
そんな自分におろかさを感じます。
それを取り除いてくださるのが、観音様ですね。
腹立ちもイライラも穏やかに鎮めて下さいます。
ありがたいと、日々の生活の中で、よくよくその名を一信に唱えます。
すこし、心の平穏が戻ります。
腹立ちもイライラも穏やかに鎮めて下さいます。
ありがたいと、日々の生活の中で、よくよくその名を一信に唱えます。
すこし、心の平穏が戻ります。
今日も一日、私の世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、甘くない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。