''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

こんな桜も咲いています より。

朝から、いい日差しです。
裏庭にも、その日差しは届きます。
プランターに、トマトの新芽が出ています。

去年の落下したプチトマトを、そのまま土の中に埋めて置いたのに、芽が出来ました。
30くらいの新芽が出ています。

毎日、そのトマトの芽に水をやるのを、楽しみの日課にしています。
それに、芽が出たジャガイモも捨てるに忍び難く、土に植えると、これまた立派に育っています。
秋の収穫期には、楽しみになります。

とうみょうの茎も、水に付けると、また芽が出ると聞いて、一度やってみたいと思っています。
いまだ、やっていないです。

緑は、心に何かしら安堵を感じます。
やはり、人間らしい部分なのでしょうかね。
宇宙ステーションでも、緑を育てると、飛行士の心が安らぐと言うのを聞いたことがあります。

人は、大地やその上の緑の作物に、関係して生きていけない生き物なのでしょうね。
それが人間らしい部分だと思いますね。
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家の近くに、可愛い桜の花が咲いています。
さくらんぼを付ける様に桜でしょうかね。
色合いが、とても可愛いです。
まるで、幼い子のようです。

最近のニュースで、流れてくるのは、京都と言えば、車の事故です。
祇園の惨事が治まったと思えば、今度は亀岡の惨事です。

私も、あの道はよく通ります。
京都から、播州の田舎に帰る時も、抜け道に使っています。

少し見通しの悪い細い道ですが、見通しが悪いから、車も人も飛ばしません。
あんな場所でスピード出すのは、愚かな人間です。
民家が続きますから、子供さんが飛び出す可能性はあります。

それを、登校している列に突っ込むというのは、考えられないです。
夜遊び明けの居眠り運転、それも無免許運転と聞けば、憤りを感じます。
それ以上、事故起こした後も、怪我人の救助すらせずに、他人事のように見ていたと聞きます。
全員無免許の18、19歳の若者と、言えども自分の仕出かしたことの重大さや責任すら感じない。

人間ではありません。
ハンドルを握るという行為の重さを、分別することなく、18年間も生きてきたのですね。
どんな家庭に育ち、どんな暮らしをしていたのか、想像すら出来ません。
そんな、餓鬼畜生の魂を持った人間の姿をして、世の中を歩いているモノが多くいます。

何故、そんなものの非道な行為によって、貴重な人命が失われたのでしょう。
それを、何度も何度も、考えさせられます。
ちょうど、東日本大震災の被害者の時で同じです。

亡くなられた方が、命の大切さを世に知らしめる天命を受けて、生を受けたとしか、思えません。
そう考えないと、居た堪れない事件です。
ご冥福をお祈りします。

加害者も、容易に死刑にはならないでしょうから、またこの世の中に出てきます。
同時に、今回加害者とならなかった同乗していた幇助犯の2名も、刑期を終えれば、この世の中に出てきます。
何らの反省もないまま、また同じような犯罪を繰り返すのでしょう。

本来、人間の体には、人間の魂が宿るはずです。
しかし、あの世にも手違いはあります。
餓鬼や畜生に生まれるべき魂が、まちがって人間の体に宿る。
世の中の、極悪非道な事件がおきる根本の一つにあると思います。

これほどの非道な人間でなくても、往々に修羅の世界に住するものが、間違って人間世界に住している者も多いです。
トラブルを起こす方に多いですね。

自分の自我だけを、強く主張する人間です。
体は人間でも、魂は修羅の住人です。
そんな修羅の魂にも、時にして人間の魂に近づくこともあります。
一念三千の法理の如くです。

人間の魂でも、時に怒りに任せ、餓鬼や畜生の心を起こします。
時に、困っている人に、やさしい言葉をかける菩薩の心も生じます。
まさに、十界互具です。
十界の中に、十界が存在しているわけです。

言葉だけの羅列は分かっていても、その本質は大変難しい天台の妙義とも聞きます。
もっと本質的な理解が出来たら、もっと明確にこうした不幸な事実を受けとられるのでしょうかね。
今の私には、少し無理があります。
まだまだ修行が足りません。

しかし、事故を起こし、その現場に多く被害者が、苦しんでいたり、意識を失って倒れていたりするのを見れば、何かしないと思うのが、人間です。
それをただ呆然と他人事のように、立って見ていたと言います。
この加害者には、この生地獄の光景が、日常の光景であり、過ごしやすかったとしか、思えないです。

その魂の本質は、餓鬼や畜生でなく、地獄世界の住人だったとしか、思えません。
私も子供の時から、何度か事故に遭い、生死をまたいだ大きな事故に遭遇したことがあります。
その光景は、やはり地獄です。
こんな地獄もこの世の中にあるのだと、痛感しました。

身の回りに、こんな地獄世界はあります。
それに、縁するかしないかだけです。

悪い縁は、悪い縁を好み、悪い縁を引き繋ぐ、類は友を呼ぶとという諺もあります。
悪い縁を断ち切ることが、現世の修行です。
その為には、悪い行いをしないで、いい行いをする。
ここに起因すると感じます。

それでも、今回一連の事故のように、自分が気を付けていても、防げない悪い縁もあります。
過去の縁なのか、現世の縁なのか、はたまた、その場所に由来する悪縁なのか、私は分かりませんが、足をひっぱる悪縁が落ちています。

何故、罪もない子供さんや妊婦さん、その体内に宿った命まで、この世から去らないといけなかったのか、自問自答しても、答えはなかなか出ないです。

怪我された子供さんも、一日も早い回復を祈ります。
それ以上に、あの篠の地域の住人やそこに暮らす子供さんの心に、忘れることなく深く刻まれた心の傷になったことを思うと、居た堪れないです。

私もあの道を通ることは、当分出来ないです。
あの道を通れば、この事件を思い出します。
辛いことです。

辛いことも、嫌なことも多い。
それでも、それも好日と言わざるを得ないです。
好日とは、何も良い日ということではありません。
こうした不幸な出来事の日も、時にある。
それが故に、人の命の大切さを感じる日という意味です。

日常生活には、楽しい事ばかりではありません。
それでも、どんな中にあっても、ささやかな心の平穏を求めないといけないです。
時に、花を見て、時に、月を見て、この嫌な気持ちを払拭したいです。

そんな時、やはり仏縁に繋がっているのはありがたいです。
感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとさんです。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、花を手向けた話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。