''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

大根日記 その27

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朝の日差しが眩しいです。
今日も快晴の予感する京都伏見です。

日差しが強いです。
初夏を思わせますね。
まだ梅雨の洗礼を受けないと、本当の夏は来ません。

それに比べて大根がなかなか成長しませんね。
仲良くして下さっている「すてこさん」から、貝割れ大根ではとの、ご指摘に納得です。
私も貝割れ大根って、聞きたくなります。

しかし、どんなものの種かというと、写真の中にある立派な赤丸の大根です。
二十日大根といいがら、27日経ってもこの有様です。
どういうわけか、ぐんぐん大きくなりません。

土も園芸の作物用の土を使っています。
多少の肥料も調合しました。(土肥ですね)
おかしいです。
成長が、思うようにいきません。

それにオクラが、絶滅寸前です。
同じ様に手間をかけ、水をやっていますが、どうも私と馬が合いません。
作物でもそうですから、やはり人間も同じです。
馬が合うとか、合わないとかあります。

類は友を呼ぶといいます。
同じような趣向を持った人間が、それぞれに引き合います。
そうした因縁があるのでしょうね。

年歳にも因りますね。
数年前には、こんな私が裏庭で大根やトマトを育ている姿を、思い浮かばなかったですね。
不思議です。

伏見の繁華街の大手筋商店街で、二十日大根の種を貰わないと、この大根日記も存在していないです。
あの日あの時です。
それから始まったと言えます。

こうした起点が人生にも往々にしてあります。
どんな些細な出来事が、人生を変えるかも分かりません。
不思議です。

大手筋商店街と言えば、大河ドラマ龍馬伝』の影響で伏見の町を訪れる方が多いですね。
ここかしこに、「龍馬」のロゴや文字が入っています。
龍馬通り商店街という名の後付の商店街もあります。

史跡「寺田屋」には大勢の観光客です。
坂本龍馬と言えば、いまや明治政府の基礎を作った偉人のように言われていますが、近年までその名前すら知られていなかった人物です。
最大の功績は、司馬遼太郎が書いた『竜馬が行く』の小説の影響ですね。

桂小五郎と言えば、明治になって木戸孝允(きどたかよし)(35歳よりこの名を使用)ですね。
明治政府の要人です。
奥さんはというと、桂小五郎を匿った、あの有名な芸妓幾松(木戸松子)さんですね。
今でも、「幾松」という料理屋さんが、京都の同じ地で営業されています。

ちゃんと男として命の恩人として、大切な妻に迎えられてましたね。
なかなか木戸公も大したご仁です。
侯爵夫人ですからね。真珠夫人とは違います。

木戸家秘蔵で公開していなかった日記が、明治の晩年になってその存在が知られ、その中に坂本龍馬の名があったとも聞きます。
坂本龍馬の名前を印象付けた方に、勝海舟がいます。

海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものの中に、龍馬を褒めた記述があるようです。
その甲斐あってか、明治24年(1891年)4月8日、贈正四位されています。
もともと龍馬が、明治政府の立役者のように取り上げられていますが、私はそうではないと思います。

龍馬自身、西郷隆盛のために動いていた人物だと推測しています。
西郷の密偵とも言えますし、協力者とも言えます。

龍馬は、亀山社中(後の海援隊)という日本で最初の株式会社を作った商売人でもあります。
その商売のために、金策のために、薩摩特に西郷に近づいたとも言えますね。
船を必要としたためですね。

本気で海外と貿易して行こうと考えていたようですから、当然と言えます。
その一環として、薩長同盟があったわけです。
両者の利を諭したわけです。
これにより漁夫の利を得たのが、龍馬ということになりますね。

徳川の世を終わらせて、アメリカのような政治体制を望んだと言うことです。
戦を求めていません。
平和に、ずるずると新しい体制に移行することを思っていたと言えますね。

そんな他愛もない話の一つとして、その場に居合わせた後藤象二郎提案の「大政奉還」ですね。
政権を徳川から帝に返せばいいと安易な考えです。
大名や大身の旗本などには、絶対に出てこないアイデアです。

戦をなくして、新しい政治体制になれますからね。
戦の大儀名分がなくなります。

すべて、海外に行って貿易するために、政治的な活動をする羽目になったと言うのが、真相でしょうね。
当時の武士には考えつかない突拍子もない考え方が出来たのが、坂本龍馬の売りです。

それを雁字搦めの武士が、それに飛びついたと言えます。
大名家や大名家の重臣の中には、どうしたらいいのか全く理解の範疇を超えた時勢の到来でしたからね。

もちろん、朝廷も同じです。
世界と言えば、御所の中のこと、広くても京都の落中の範囲しか想像できなかったのが現実です。
薩摩の隣が、エゲレス藩で、その隣がアメリカ藩と言うくらいの感覚しかなかったのです。
それを、急に譲位や開国やらと、徳川から言われても応えようがないです。

徳川も同じです。
外国と戦では勝てないことは明らかです。
開国しかないのは分かっていても、いいなりにはなれません。
徳川のご政道の威厳に関わります。

ずるずると開国のなれば善かったのでしょうね。
時代が待ってくれません。
世界の情勢は、清のように、列強の属国になることは明白です。
それは長崎の出島を通じて情報は、幕府も老中など一部の重臣の耳には聞こえていました。

ずるずると明治政府に移行して行ったのが、現実です。
薩長の二藩だけ、薩長土肥の四藩だけで、明治政府になったと考えるのは無理があります。
どの大名も、大勢に乗り遅れてはと、様子見の姿勢です。

その中にあって、外国の知識に長けた者が生き残った藩が、上手に生き残ったと言えます。
その中心が、薩長土肥の四藩であり、それら重役に顔が利いた坂本龍馬だったと考えます。
既存の考えに囚われなかった柔軟な考え方が、上手に日本の国を近代国家に導いたと言えます。

ずるずると、移行したのが善かったです。
でも、最後まで固執した会津藩は最たる犠牲を払います。
古いの考えに固執して、人の命の重さを軽視した悲劇とも言えます。

薩長も多くの犠牲の上に成り立っています。
出来ることなら、戦を戦いたくなかったはずです。
江戸城無血開城も、こうした利害が共に一致した結果です。

早く徳川の世から、新しい明治の世に、ずるずる移る時代の「狭間」が幕末から、明治の初期です。

本当に坂本龍馬が必要とされたのは、実は明治政府になってからです。
殿様も、藩もなくなって、武士の特権もなくなって、自分が分からなくなった人物が多くいました。
こんな時、龍馬ならどんな奇策のアイデアを明治政府の要人と、四方山話して政治に反映できたでしょう。

もちろん、明治政府を作ったの本人、西郷隆盛すら、大久保利通すら、木戸孝允すら、早々とこの世を去ります。
国をまとめるカリスマがいなくなってからの、明治政府は混迷を続けます。

その結果が、奇策のアイデアでなく、軍事優先の国家へと突き進みます。
あっと驚く、魔法のようないい方法があれば善かったのですがね。
それにしても、伏見は龍馬ブームですよ。

大根から話がそれました。
大根も魔法で早く大きくして下さいなぁ。
現地伏見より、かんとうしょうえの歴史リポートでした。

最後まで、長々しい大根の茎のような歴史話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。