''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

藤森神社の御札が参りました。

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5月5日に、藤森神社の御神輿・武者行列にと、稲荷神社での祭事を拝見しました。
大勢の行列に、本町通り界隈は、大勢の氏子の姿がありました。
手前も、この藤森神社さんが土地の氏神さまになります。

 

こうした一連の行事に心ばかりのお布施をさせて頂いています。
そうした中、少し遅れて、お布施に対する御札が参りました。
これで、藤森神社の都合3枚のお札です。
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昔話に「三枚のお札」の話がありますね。

 

山寺の小僧さんが、栗拾いに行きたいと和尚さんに申し出ます。
山姥(鬼姥)が出ると引き止めます。
どうしても行きたいという小僧さんに、和尚さんが三枚の御札を渡します。
困った時に願いをかけよとと教えます。

 

やはり、小僧さんが栗拾いして夢中になっていると、山姥(やまんば)が登場です。
お決まりです。
それでもって山姥の家に連れて行かれます。

 

小僧さんを食おうと、砥石に庖丁を丁寧に研ぎます。
怖くなった小僧さんは、便所に行きたいと言い出します。
とりあえず便所に立ちこもります。

 

山姥の催促です。
ここでお札を使います。
すると、お札が答えました。
「もう少し、もう少し」

 

すぐに騙されたことを知り、小僧さんを追いかけて来ます。
すると、やばいと二枚目の札を取り出すます。
「川になれ!」
危うくのところで川が出来て、山姥の追跡から、一時逃れます。

 

すぐに追いついて来る山姥です。
危ういと最後の三枚目の札を出します。
「山火事になれ!」
山姥は、炎の中で苦しみます。

 

それでも獲物は逃がしません。
とうとうお寺に逃げ込みました。
山姥が小僧を出せと和尚に詰め寄ります。

 

和尚もなかなかの芸達者です。
「言うことを聞いてくれたら、小僧の隠れている場所を教えてやる」
こう来れば、山姥は承知です。

 

「山姥はどんな大きさにも姿が変えられるというが、豆粒ぐらいにはなれんだろう」
と挑発して、豆粒ほどになった山姥をそのまま、和尚が食べてしまいます。

 

何てもへんてこなオチの昔はなしですね。
子供心に「へんな味」とか「気持ち悪い」と思ったものです。

 

どこにでも、ある昔ばなしの類ですね。
でも、豆粒になるというのは、まさしく魔目に通じます。
節分の豆まきは、悪魔の目を封じるという魔よけですね。
ですから、どうしても豆粒というのがキーワードになります。

 

山姥(やまんば)というと、鬼をイメージしますが、不思議の象徴ですね。
何でも山に入ると、山姥のせいにされます。
都合の悪いことは、山姥のせいです。

 

人は一人では暮らして行けないですね。
特に昔ばなしのような平安や鎌倉時代では尚更です。
それでも、山に住む人はいました。

 

山岳民族ですね。
傀儡(くぐつ)の民ですね。
ですから、日本は単一民族ではありません。

 

隆慶一郎氏の小説『影武者徳川家康は漫画にもなっていますから、そちらの方が有名ですね。
家康が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際に死去し、その後は影武者が代役として立てられたという設定で書かれている小説です。

 

この身代わりの影武者が、世良田二郎三郎元信という人物です。
一説によると、この方も傀儡(くぐつ)の民であったとも聞きます。
真実は歴史の闇の中です。

 

家康の死亡の可能性は高いです。
その為、影武者が晩年の家康であった可能性もあります。
大坂夏の陣で、真田幸村に襲撃された事実はあります。
危うく首を取られては困ると、自陣しようとしたくらいですからね。

 

もしかしたら、この時影武者と交代したのかもしれません。
幾度と影武者の家康の話が登場します。
何か不信な言動があったのかも知れません。

 

傀儡(くぐつ)の民は、自分たちの山の神を祀ります。
この三枚のお札のベースには、「和の民」と「傀儡(くぐつ)の民」、仏教徒と他の宗教に対する対立があったと言えないこともないですね。

 

傀儡(くぐつ)の女は、大変美人と聞きます。
傀儡女(くぐつめ)と言われます。
江戸時代になって、日本中、徳川の力が及びます。

 

徳川の統治機構に含まれない人種もいます。
その一つが、傀儡(くぐつ)ですね。
しかし、山深く住んでいる山岳民族も、いやいやながら、世俗に交わらないと暮らしていけなくなります。

 

農地の開発に、森林破壊、自然破壊とも言えます。
その中で、病や生活の糧にと、金銭が必要になります。
しかし、江戸時代もそうですが、人別帳という戸籍があります。

 

傀儡(くぐつ)の民に、戸籍はありません。
日本に存在しない架空の人物ということですね。
今で言うなら、無国籍です。(覆面レスラーみたいですね)

 

ややこしいお金をきれいなお金に変えるマネーロンダリング的な、こうした人間のロンダリングがあります。
それが、一説には遊郭の吉原ということになります。
独特の廓ことばで、遊女の生まれも素性も隠します。
「そういうことも、ありんすね」

 

日本の社会に普通の生活に適応出来ない傀儡女(くぐつめ)が遊女として、れっきとした和の民の戸籍を手に入れたことになります。
借金を返済したりすれば、数年で町中で大工や職人の嬶として生きていけたのも事実です。

 

隆慶一郎氏の小説『吉原御免状には、触れてはいけない事柄が記されているのです。
どうしても幕府としては、『吉原御免状』の存在を消さないといけません。
その内容とは、今では本物になった影武者家康こと世良田二郎三郎元信が、傀儡(くぐつ)の民であったことですね。
あくまでも小説の話です。

 

隆慶一郎氏と言うと、マンガの花の慶次原作者ですね。
また「傾奇者(かぶきもの)」という言葉と前田慶次郎利益という歴史上の人物を世に知らしめた。
今では、パチンコにもなっていますからね。

 

テレビドラマ『鬼平犯科帳』、『長崎犯科帳』、『破れ奉行』などの脚本も手がけられていますね。
懐かしい時代劇です。

 

隆慶一郎氏は、こうした忍者も傀儡(くぐつ)の話や吉原遊郭にも詳しい方ですね。
吉原という遊郭は、不思議です。
風魔忍者が開いたとの話も聞きます。
やはり、人間ロンダリングですね。

 

忍者も傀儡(くぐつ)と同様に、日本の統治下に入っていないことも多いですね。
同じ忍者でも、根来衆や伊賀甲賀衆を率いる服部半蔵は正式な武士の扱いです。

 

服部半蔵に至っては、8000石の大身旗本ですからね。
配下の与力衆を合わせると、ほぼ大名並びの扱いです。
松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将として、徳川の英雄です。

 

それに比べて、風魔忍者は北条に従っていた忍者集団です。
豊臣秀吉の北条征伐の時に、表の歴史から消えます。
代々の頭首、風魔 小太郎(ふうま こたろう)は捕まえられて処刑されたとも聞きますが、そんな簡単に捕まるわけもありません。

 

こうした戸籍のない忍者にも、生きる術を残したとも考えられます。
それが吉原遊郭ですね。
風俗いう一面だけでなく、社会の必要な枠があるはずです。

 

山姥も生きる価値はあるはずです。
殺してもよいとは言えません。
本当に、子供を捕まえ食らったのか、それとも虐待されている子供を救ったのかは、不明です。

 

本当に食らっているところを見た人はいません。
都合の悪いことを山姥のせいにして着たとも言えます。
神隠しの類ですね。

 

昔ばなしからもいろいろなことが見えて来ます。
お札の札は、蓋(ふた)なも通じます。
都合の悪いことに、蓋をして見えないようにします。

 

お札の3枚は、やはり、過去世、現世、来世の仏法の三世でしょうね。
いろいろなこじつけも出来るのが面白いです。

 

たった3枚のお札から、いろんな世界が広がります。
空想の世界に住しています。
世俗から離れた仙人的な生活に憧れますね。

 

少しお疲れかもしれません。
山姥の生活こそ、現代社会の理想郷なのかも知れません。
ストレスなさそうですね。

 

それでも、今日もこうして過ごさせてもらっています。
ありがたいことです。
神仏のご縁に導かれています。
ありがたいことです。
感謝しています。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせるように、祈るばかりです。

 

最後まで、昔ばなしにお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。