''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ツバメの御宿より。

昨日といい、今日もいい、暑い夏の天気ですね。
暑いと言わずして、言う言葉が見つかりません。
でも、夏ですからね。
イメージ 1

近くをツバメが飛んでいます。
民家の軒に、板が張ってあり、巣を作れるようになっています。

我が郷里、播州では、家の土間の同じように、板を張って巣を作る場所を提供しています。
ですから、代々我が家のツバメです。
毎年、我が家に帰って来ます。
子供の頃の記憶です。

ですから、この時期玄関の戸は少し開けています。
もしくは、ツバメ専用の出口を空けています。
毎年、我が家に帰って来ては、子を成し、巣立って行きます。

ツバメの鳴き声に、この時期を感じます。
季節的なものですね。
何ゆえ、家にツバメのお宿を提供するのか、それはツバメが益鳥だからです。
悪い虫を食してくれます。

畑や田んぼの虫を食して、豊作を祈願するためだと子供の頃に聞きました。
伏見の町の中でも、それらが生きています。
本町通りは、街中ですが、旧街道筋ということもあり、少し離れると畑や田んぼが残っています。

昔ながらのやり方ですね。
ツバメの飛ぶ姿に、何か元気を貰います。
しかし、ツバメというと私は同時に齋藤茂吉の短歌を思い出しいます。

『のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にいて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり』
臨終が近い母の枕元である。ふと梁を見ると
[のどの赤い燕が二羽、梁に止まっている。いま私を生んだ母は死んでいかれるところです]
悲母が現世を去ろうというとき、のどの赤い燕が、しかも 「つがい」で見守るようにも見える。
(解説「日本名歌の旅(4)」より、抜粋)

少し物悲しい短歌です。
中学の時に出会いました。

親孝行したい時には、親はなしといいます。
親とも別に暮らしている身としては、いつもこの歌のイメージがどこかにあるのかもしれません。

そろそろ家族会を開かないといけないですね。
いつも風呂に入ってごはんを食べる2時間だけの家族会です。
前は、神戸の三ノ宮でしたから、今度は丹波篠山当りの予定ですね。

日々の暮らしの中で、いろいろな出来事に遭遇します。
何気ない生活の中で、小さな幸せは落ちています。
拾うか、拾わないかだけです。
それ以前に見つけられるか、見つけられないかですね。

仏縁を得て、この幸せを少し見つける力を得たような気になっています。
目線をさげて、自分の分に合った幸せを見つける。
それを拾うというだけですね。
特別な宝物は手に入りません。

旬の見合ったささやかな幸せを見つけます。
あー良かったと思えるささやかな幸せです。
ありがたいと感謝の気持ちを添えて下さい。
より、よかったが探せますよ。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事を祈ります。

最後まで、若いツバメの出て来ない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。