''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

奈良紀行 興福寺で一服 より。

秋の気配と昼間の温かさが、秋の紅葉の深まりを、木々の色どりに変化を付けて、本格的な秋へ誘れる心地持ちがします。

昨日は先日の秋の奈良の記事を書きました。
今日もその続きを書き記します。

猿沢池で昼餉をとった後、池から見える興福寺に向かいました。
大勢の人です。
ちょうど、国宝特別公開2010という特別展の真っ最中です。
最後尾で、30分待ちの表示がかかっています。
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それを気にせず、五重の塔と、東金堂を遠くから眺めます。
奈良のお寺は、遠くから眺めるのがいいですね。
風景の一部と化しています。
京都で言うなら、借景と言う言葉を使います。
お庭の中に、清水さんや大文字山を、まるで自分の庭に取り込んだかのような、作庭です。

奈良にはそうした借景としての風景でなく、「寺ありき」というか、寺を町の中心に感じる趣が古都奈良の楽しみでもあります。
それを借景というのは、そら失敬です。(今日は、ここしか笑うところないです。とおるちゃん)

猿沢池の水面に浮かぶ五重の塔は、なんとも古都奈良らしい風景です。
その五重の塔は、光明皇后の発願で730年建立、現在の建物は1426年再建されています。
その隣にあるのが、東金堂も聖武天皇が726年建立、現在の建物は1415年再建されているという由緒のある寺院の建物です。
今、金堂が再建されている最中の興福寺の散策です。

静に腰をかけて、建物というか、この広々とした空間を楽しみます。
古人(いにしえびと)も見た原風景がまだ残っているはずです。
目を閉じて、時空を超えた空間に住しています。

今はない建物に想像を膨らませて、自分のイメージの奈良を楽しむ。
これが京都と違う古都奈良の楽しみ方です。
想像力が豊かでないと、いけませんね。

何度も足を運びたくなる独特の雰囲気があります。
目には見えないけど、感じるものがあるということです。

興福寺は、奈良の法相宗大本山として、宗教的な要の寺としても、歴史的な価値があります。
奈良六宗、南都六宗の一つでもあります。
日本の古い仏教形式を伝えています。
簡単には、鎮護国家を願うところから、奈良の仏教の始まりがあるように聞いています。

法相宗の「法」とは物質を表し、「相」とは心理的な印象を表すとされ、それらの関係は一対一の対応ではない。
一つの出来事や項目から、この世界を分析分類しながら、論理的に考察して、この世界の真理を解き明かす教えのようです。
仏教学の基礎と言われるのが、法相宗唯識の教えと記されています。(薬師寺HP参照)

なかか奥が深いです。
法華経の「妙」と「法」との関係にも似ていますが、「妙」と「相」には考え方の違いを感じますね。
物事を分析し、見えない世界が存在するという考えに立った妙義とういう仏の真理も感じることができると、もっと仏法世界に近づけるように感じます。

凡夫の悲しいサガです。
日々の中で、見えないものを感じるようにしています。
目線を下げた心の持ちようで、見えないものが見えるかもしれません。
花を見て、月を見て、四季を感じ、それらの旬を食する。

人として生まれたからには、天命があると信じています。
必要があるから、ここに存在する。
偶然の偶然はありません。
私も存在も、あるべくしてある必然であると感じています。

仏さまの仏縁を頂いていることに喜びを感じますね。
安堵感を感じます。
見えない糸の存在を強く感じます。
三世十法の仏の中に住させてもらっています。
ありがたいことです。

日々の雑踏の中で、いろいろな難儀やストレスを感じて生きています。
それも試練とすべてを受けとめて、心の三毒を廃する術を駆使して、心静に安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせるように、祈ります。

最後まで、難と(南都)戦うことなく平穏な話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。